2019年12月5日(八段語録3658)
極真の修行は美しい


 道を究めるという事は、美しく生きるという事になると確信が生まれているのです。
極真の道を求めながら、それ以外の道に外れていく人の愚かさも見え隠れします。
そうして、五十年の歳月を極真で歩んで、実に喜びと感動を受けるのは私ばかりではないのです。
この道を歩むと、時に応じて警告があり、その時は、注意して実行するのです。間違いなくそのような時は、結果が良い事に気づかされるのです。
さて、初心者として極真の門を叩いた時から、指導者に至るまで、私の極真での立つ位置は変化してきたのですが、貫いて歩んできたという事で、常に喜びも深まるというものです。
もちろん、日々の修行は厳しいものがありますから、煩わしく感じることもありました。
それが、苦痛になっていき、最後は悲痛なものになるという事にもなったのです。
それでも、極真の道を振り返ると、人生は何と「美しい」ものかという実感に変わるから不思議です。
修行という道で、煩わしさから苦痛、そして悲痛に変わっていくという道でも、一つの事を貫くという事で、美しく感じるのは何であろうかと問いかけてしまいます。
修行の結果、千秋楽まで残って、最後の一番を横綱として相撲を取っているようです。
最近の白鳳の張り手には閉口してしまいますが、大鵬の横綱相撲であれ、昔話に聞いていた双葉山の横綱としての相撲は気品があり美しくもあったのでした。
いわゆる、人生というものに、照らし合わせる時に、勝つだけでは駄目で、美しく勝たなければならないという事だと思うのです。
それだけに、極真を離れて別の道を歩んだとしても、美しさという事に関しては欠けるという事です。
受験のために、極真を止めて受験勉強に専念するという道場生もいましたが、結果は目に見えているのです。
あくまでも、極真に出会ったからには、貫くという美しさを、味わってもらいたいという気がするのです。
空手の修行では、危機的状況も生まれますが、それを乗り越えた時には、更なる信念に変わるというものです。
修行を重ねると、極真での役割が生まれてくるのです。
そして、己自身が極真のビジョンの一部に同化してしまうのです。
振り返るまでもなく、その歩みは、実に「美しい」のです。
汚れなき生き方というものは、「貫く美しさ」ではないかと思うのでした。