2019年6月24日(八段語録3570)
世俗と極真の対決


 何故か世俗と極真は全く違った主張をします。
景気が上向きになって、良好な生活ができるよう望むというのが世俗の主張です。
ところが、極真という修行の場では、どんな苦境にあっても越えていくことができるように自助努力を強調します。
両方の主張が兼ねて備わればそれに越したことはないのですが、私達は厳しい修行を取っているのです。

果たして、世間と極真との内容を聞いて、どのように感じるでしょうか。
確かに平安であるように平和な世界でになるという事は、世間受けするのです。
私達の場合は、どちらかといえば、危機意識が強いので、自助努力をして備えるのです。
愛国的精神からするならば、世間で言われているようなことを信じたいと思うのです。

ところで、私達の主張は、自らをいつも正して、危機に対する防備をするという事なのです。
そのような姿勢は、疲れるのではないかと言われますが、確かにしんどいのです。
安易に生活をするという事を捨てて、防備という事に対して真剣になるのです。
一般的には、やはり世間受けするような姿勢がもてはやされると思うですが、私達は違うようです。

平和を説くことは、大切な事ですが、偽りの希望を持たせるという事は私達にはできないのです。
極真の道を行くという事は、厳しいのですが、私達は真剣に取り組むのです。
それだけに、世間受けはしないのですが、共鳴してくれる人は、ゼロではないのです。
人々が聞きたい言葉を語り、幻想を吹き込んで惑わすことはしないのです。

極真に携わると、それなりの誘惑があり、それに対して、厳しい警告をするのが私の役割でもあるのです。
この世に迎合することなく、稽古をしっかりせよという事を口を酸っぱくするほど訴えています。
人生に真摯に向き合って、しっかり稽古をすることで、平和がもたらされるという修行第一主義を掲げているのです。
それは、私がこの年齢になっても変わらない姿勢という事です。