2019年6月22日(八段語録3566)
二つの生き方


 歴史の中で、捕囚となった国家があったのですが、捕囚された国家で何らかの利益をもたらす人人材になったというのです。
その捕囚という現実を迎えた王は、戦うことなく投降し、囚われ移されたのです。
しかし、その囚われの身であっても、その国のために尽くしたというのです。
それを良しとして人生を前向きに捉えたというのです。

そのような生き方を良いイチジクの木に例えているのです。
それも、しっかりとした倫理道徳を備えて、囚われの身であっても心を正したというのです。
さらに、しっかりとした人生の道を捉えて離さなかったのです。
それだけでなく、身の回りを清めて、罪を犯さない生活をしたという事でした。

このような境遇に置かれた人が、大成功したという例は、いたるところに転がっています。
日本でも、徳川家康が幼少のころ、人質に取られて捕囚生活をしたという事は知るところであります。
「心を尽くして」本来の状況に至るように努力するという事が始まっていたのでした。
最終的には、天下統一を図り、揺るぎない徳川幕府を開いたのでした。

ところが、捕囚を逃れて、異邦の地で安楽に生活したという記述のある人達がいます。
この書の記述によると、悪いイチジクの木として、腐った生き方をしたというのです。
要するに、人生という素晴らしい内容を、只浪費して安易に過ごしたというのです。
自分自身、人生を捨てたという事であり、周りの環境からも捨てられたのです。

人生とは不思議なものです。私も四十歳前の働き盛りで、故郷に帰りました。
そして、故郷に帰ってから、立て直し倒れないように植え直し、引き抜かれないイチジクのになるという決意をしたのです。
人生を一生懸命前向きに戦うという事は、天道に立脚しているといえるのです。

確かに、囚われ身のような極真の修行時代でした。
空手をすること以外には、意識と興味がなかったのです。
そして、故郷に帰って、修行が生かされるように花を咲かせたのでした。
経験からして、困難な事は、決して無駄ではないという事です。
良いイチジクの木を目指しましょう。