2019年6月19日(八段語録3562)
山形沖大地震


 昨日午後十時半ごろ、地震速報が携帯電話をけたたましく鳴らし続けました。
その後、私の住んでいる仙台市宮城野区は、震度四の地震が直撃しました。
幸いに、被災することはなく強烈ではありましたが、十数秒の揺れだけで済みました。
その後、テレビ各局の情報は、地震と津波の対応をするよう新潟・山形に発令されました。

夜なので、津波も地震もどのような被害を与えたのかという事は、情報としては皆無でした。
一夜が明けて、地震の被害状況が明らかになってきました。
広範囲なのですが、死者が出るほどの災害になっていないようで、怪我人が二十六名でした。
今日は、一日中、この地震のニュースで全国を駆け巡っているのです。
私は心配性なので、新潟の田中師範と秋田の春日師範と連絡を取って無事を確認しました。

さて、私の目の中に去来するのは、東日本大震災での様子で消防団での活動が克明に浮かび上がってきました。
津波も大きかったこともあって、二万名の人達の生命が失われたことでした。
避けることができない、自然災害に対して、人間の力は余りにも小さいという事を嫌というほど知らされました。
そのようなさなか、四十日余りの期間は、消防署に釘付けのような状態で過ごしたのでした。

東日本大震災は忘れようとしても、山形沖の地震が発生すると、あの当時の事を思い出してしまいます。
災害当事者としての記憶は、私の心にあって、地震が起こるたびに、燃える火のようにわが内の骨に閉じ込めていたものが、抑えることができなくなってしまいます。
むなしさと失望の痛ましい苦しみが、襲ってくるというものです。
この災害の激しい苦しみを乗り越えさせる原動力は、家族の絆と地域の助け合いであったのでした。

東日本大震災で、結果的に父を失ったり、家が半壊になったり、様々に消防団活動をしながら尽力をつくしたのでした。
疲れ切った時には、もうやってられないという気持ちも勝ったことも事実なのです。
それでも、最後まで人生を全うするためにも、今回犠牲になられて人々に救援の手を差し伸べたい思いでいっぱいになるのです。