2019年6月17日(八段語録3559)
人の心の陰険さ


 「人の心」がなによりも「陰険、偽る者、不正、とらえ難い」と、ある人物を見て感じたのです。
その心を、変えようとしましたが、無駄な努力でした。
人を欺き、出し抜き、押しのける性格を持っている人でした。
その人物と共に十年近くボランティア活動をしてきたのですから、私に対する被害は甚大でした。

何にもまして「陰険」な人物との出会いは、人生で初めてでした。
何年か過ぎると、私を欺き、自分も欺く心を持て余していました。つまり不義の木でしょう。
よい木とは、良い実を結ぶ木です。そのような存在は自然には存在しないようです。
水のほとりに移植されなければ、良い実を結ぶ木にならないという事です。

当然、人があらゆる努力をして、品種改良を繰り返すという事にもなります。
私にとってみれば、武道精神でもって人を信頼するという事が品種改良という事です。
結果彼からの発信は、私物化する力量を発揮し、私にとっては、嫌な印象を植え続けられたという事です。
そのような者は、荒地のむろのような木で幸せが訪れても、住むものがいない塩地に住むだろうと予測がつきます。

私自身としては、耐え忍んできたゆえに、水のほとりに植えた木のようにという事です。
その根を川にのばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉が茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実を実らせたいという気持ちになります。
ようするに、木が流れのほとりに植えられているかどうかが問題であるという事です。
この木は、自然の木ではなく、移植されたという事です。
その移植という事業を極真空手で精力的に行っていると確信しているのです。

ここには、人を信頼するという武道精神が散りばめられているのです。
初めて、「陰険な心」が「癒しがたい心」に導かれ真実な心となりうるという事です。
「朱に染まれば赤くなる」という事の様で、同じ仲間で何かやっているようですが、いずれは本人は捨てられるという事でしょう。
決して、それは喜んでいるという事ではないのですが、人の陰険さを知るという勉強を数年に渡ってさせていただきました。
もちろん、その人物に対して、外科的処置は行わないことにしたのです。