2019年6月15日(八段語録3554)
偽物を排して本物の追及


 ほぼ、自分の欲望を中心に行動を起こすと偽物に変身することに気づきます。
よかれと思う事が、誰かに迷惑をかけて、秩序を壊すことにもなりかねないのです。
それだけに、私の行動も一度は立ち止まり、良き方向に四捨五入するのです。
「自助努力によって環境を管理し、知恵をもって世界を目指し、悟りを持つ」という作業をするのです。

というのも、私自身の全てを肯定するという事は、はなはだ危険であると気づかされるのです。
この危険性を積極的に教えようとするのが、極真空手であると実感しているのです。
自分自身を無限大に肯定しようとすると、人生の経験から、とんでもないことになることは間違いないのです。
自分の欲望を目に見える形にしたならば、どうなるだろうかと恐れさえ感じるのです。

そう思うと、我欲という、私自身からの出発する欲望は、正しい道に導かないという結論なのです。
欲望を無限大に肯定すると、結局のところ、幻想という事しか齎さない運命にしかならないのです。
それだけに、極真の修行は、自分自身に警告するという事を主軸になるというものです。
結局のところ、愚かさは、極真の修練もせずに、自分の欲望を選びとってしまう事なのです。

自分自身の欲望を果たせば、どうなるかというならば、悪魔になっても、神になるという事はないという事です。
その事に気づかない人が余りにも多いという事なのです。
それだけに、日々の稽古という荒治療という事も必要になってくるのです。
極真空手で、手荒い組手を取り入れるという事は、精神的には、そこにも着目しているのです。

結局、儚い人生を送らないために、日々充実させるための手段が極真なのです。
人生は波乱万丈であるように思うのですが、同じことの繰り返しが多いのです。
それだけに、心を尽くし思いを尽くして日々の稽古に励めるようにすべきと考えています。
もちろん、道場生を指導する前に、私自身が実践しなければならないことです。