2019年6月8日(八段語録3546)
常に問いかけ


 人生に対する「問いかけ」は、常日頃から行います。私の日課のようなものです。
それを、今日の生活の現実に、ぶつけるという作業をするのです。
そうでないと、豊かに生きるという発想が生まれないのです。
また、表現力のイメージがわかないという事にもなります。
私の場合、今日という一日を絵画的に描くという事も試みようとするのです。

そうした、努力をせずに、淡々と日々を過ごすという事は、実に空しく苦痛になってしまいます。
比喩や譬えで人生は、彩られているのではないかという思いにもなります。
そのような発想をしないと、多くの収穫を期待するという事でもなくなってしまいます。
今日一日が「何であったか」という全体像をつかもうとするわけです。一日のマスタープランは何であったかという問いかけなのです。
要するに、「問いかけ」を絶えず試みるという事は人生を鳥観図的に眺めるうえで必要なのです。

今日は、「何故」「どうして」という意識を絶えず持とうとすることの意義は大きいのです。
「いったいどうして」、という問いかけは、豊かに生きるという事に関しては、実に大切に思うのです。
雲のように流されて生きれば、そんなことは感じないのですが、何に関しても首を突っ込み疑問がありすぎる人生に満ちているという事です。
それだけに、あらゆる「問いかけ」を今日もしているというのが現実なのです。

ところで、今日は、三十数年ぶりに東京で仲良しであった夫婦と対面しました。
彼らの実家が福島という事で、車で会いに出かけました。
三十数年の苦労話をお互い止めどもなく出てくるのです。
いつの間にか、時間は十一時から三時に至っていました。

本当によく聞きました。普段は自分の話に夢中になるのですが、今回は大人になっていたようです。
話の途中になってしまいました。
実は、私も会議があるので、話にピリオドを打たざるを得なかったのです。
別れがたい思いを胸に抱きながら、別れを告げてきました。