2019年5月19日(八段語録3524)
指導者こそ道場生を導く者


 今の時代、「人生を投げ打って指導を受けたい」と思える指導者が少ないのです。
報酬を前提として雇用関係が生まれるということで、指導者が安住しているようです。
また、教育者も受験という事だけに特化してしまっているようです。
それだけに、「指導を受ける側も、「偶像のような金銭」だけを追い求めるだけになります。
これでは、社会を良き方向に導くことができる指導者はいないかという疑問が生まれてきます。

さて、私達のグループの場合、「指導者がどのようにして道場生の能力を発揮させようか」という事に全力で取り組みます。
ようするに、「水を得た魚」のように、本来持っている個性を発揮させようとするのです。
多くの人は、世間という波間に浮かんでは沈む日々になってしまうのです。
そのような人に、私達のグループの場合、稽古でもって、「あなたは何者か」と問いかけるのです。

汗と流し涙を流して稽古する中で、「恐れを抱かない心」を育てるのです。
日々の実践を重ねていくうちに、「草にも等しい悩み事」を抱えていたという事に気づくわけです。
つまり、悩みに虐げられて、悩みの怒りを恐れていることを気づくのです。
「まるで滅びに定められているかのような、自分を見出していた」とはっきり自覚するわけです。

そのような捕囚された人を開放するのが指導者という事になるのです。
要するに、稽古による指導は、そのような囚われ人を解放するのです。
「死んで穴に下ることなく、パンにも事欠くことなく」という境地を目指すのです。
子供のイジメ、大人のイジメは、「一日中、絶えず、虐げる者の怒りを恐れる」ように襲ってくるのです。
その現状に対して、「生存と防衛の保障」を行うのが指導者という認識です。
「起きよ、起きよ、立て」と、このグループは日々教育しているのです。