2019年5月17日(八段語録3520)
極真空手は公義での爆発的喜び


 私達は武人ですから、周りの環境に公義を打ち立てるのです。
どのようにして打ち立てるのかというならば、心身を鍛え、道場訓に則るのです。
そうすることによって、地域社会で「明るい環境」を築いていくという事になるのです。
極真での修行は、肉体に鋭い「剣と矢」のようにし、公義を修行者として、手の中に隠すのです。

実に日々の修行は、「剣と矢」を研ぎ澄まさせるものです。そして、その「剣と矢」を鞘と矢筒に隠すのです。
この剣と矢は、研ぎ澄ませて、当然、心の敵を打ち破る手段に使うのです。
私の場合、鞘と矢筒の中に、常に隠し持って、極真の運営に当たるので、敗北はあり得ないという信念に特化しているのです。
これが、極真の修行に対しての、公義と深く関わりのある重要な日々の鍛錬になるのです。

ところで、日常生活は、いたずらにむなしく、力を使い果たすかのように見えるのです。
無駄な骨折りをしていくのですが、それによって、報酬を得るのです。
私の報酬は、神仏と共にあるという意識になることです。
それは、神仏と私がだぶるような心境になって、いつしか当初計画した実を結び、しまいには成し遂げられていくのです。
それだけに、公義という責任をもって極真を統治するという支配概念が生まれ、道場生の心身の回復と、地域の明るい環境の創造に至るのです。

それも、公義の基調は、爆発的な「喜びと楽しみ」なのです。
それは「誰ができるか」というならば、誰もがという人称なき存在まで引き上げられるのです。
極真空手の修行の目的は、爆発的な喜びと楽しさを実現する環境の造成なのです。
一人一人の与えられた個性の賜物が、開花するように輝くのです。
しかもそれが、稽古で、一つの個性体として、一つも無駄なく、愛情によってしっかり組み合わされます。
この修行は、決して夢物語ではなく、極真によって見出され、喜びになるのです。