2019年5月16日(八段語録3519)
この道でよかった


 アダムスミスの経済学ではないのですが、「神の見えざる手」で導かれているようです。
中高生と柔道に打ち込んで、武道の何たるかを体得してきたのです。
その延長で、極真空手の道に踏み入れるという事になったのですから不思議です。
今もそうですが、柔道時代、極真時代と同じ一人の神仏に導かれているようです。

何ら違和感はないのです。
いつも「一人の神仏」が、多難な人生を見守っているという実感をするのです。
それにもかかわらず、誠実に正義をもって人生を歩んできたかというならば、否です。
反省ばかりの日々を思い出してしまします。

日々は、極真の道を歩もうとするだけで、若き日は、誰が導いているかという事は、意にもかけないのです。
それでも、人生をトータルに鑑みて、誰か一人が、私の人生を左右しているような感覚なのです。
決して二人ではなさそうです。
それで、日々新しい事、私の知らない秘め事とその目的を与えてくれるようです。

今日も新しい事があり、素晴らしい「秘め事」に出会い、生き生きしているのです。
具体的には、この極真での素晴らしい出来事という事になります。

たまに夢を見るのですが、今活動していることは、若い時に「夢を見た覚えがある」という感覚があるのです。
それでも、若い時の夢は、金銀のような輝きとして映りましたが、現実は、違っていて悩みの炉で「おが屑」を練ったようでした。
要するに、精錬する価値があったわけでもないという事です。
言うならば、神仏の栄誉のために、私が朽ち果てなかったという事です。

神仏の統治支配のために、神仏の力を示すために、どうしようもない私を生かしているという事を感じるのは、どうしようもない私を見るからです。
それを私の人生という舞台の上で、実証しているように思うです。
勝手ながら、神仏の栄誉のために、私が生きることを許されているという事だと思っています。