2019年5月2日(八段語録3498)
稽古は自らを鍛える杖


 自分の人格を鍛える道具が、稽古であることは言うまでもありません。
自分自身を甘やかささないように、厳しい杖として本人の前に、仁王立ちになるのです。
「稽古は自分の力でやった。私が強いから」と言わないように仕向けるのです。
それだからと言って、強いから生きがいという財宝を、つかみ取るとは限らないのです。

人が傲慢に高ぶるようになることを、稽古は抑えます。
もちろん、稽古は、自信も付けますが、謙虚な自分を探し出すように導くのです。
心構えが、不純であると「やつれ」が稽古で待っているのです。
「やつれ」とは体力の消耗を意味します。

精神的な貧弱さがゆえに、稽古をしても内部から徐々に弱り果てていきます。
終わりには傲慢と高慢が、突如火でもって焼き失せてしまうというものです。
極真を在籍した先輩の中には、心が歪んでいたがゆえに、徹底的に破壊尽くされ、人生を放棄せざるを得ないほど打たれた人も多いのです。
それどころでなく、一撃のうちに滅びた人もいたのです。

私としては、稽古を日々する中で、「たとえ切り株になっても」そこに新芽が出るように稽古をしてほしいと願うのです。
例え、道場生が海辺の砂のように居たとしても、正しい精神態度の人だけが「残りの者」となりうるのです。
極真の伝統に則って、指導者に認められ、多くの後輩に尊敬されるならば、残れるのです。
このような姿勢は、私が五十年近く経験したことの証なのです。

極真の精神に立ち返ることが重要であるということを、故手塚会長は語っていました。
それも、「家族」「対話」「自然」の言葉に託されているのです。
最後まで極真の道を「残れる者」だけが到達することができる道であるのです。
「残れる者」は極真精神と切っても切ることができない真の道場生なのです。