2019年4月29日(八段語録3494)
厳しい指導の意味
極真空手に入門した時、私自身、実に厳しい稽古であると感じました。
それだけに、極真空手が崇高のように思ったものです。
一年ほど、稽古をしていくうちに、この目で目撃したことは、多くの先輩が極真を去って行ったことです。
厳しい稽古についていけなくて、挫折するのでした。
稽古は、汗が床を流れその汗が乾いて、まさに床が白くなるのです。
自分の体の汚れが洗い落とされるようであったので。
また、口から出る大きな気合で、唇が清められるような感覚もしました。
というのも、稽古が終わった時には、清々しさが漂って、吐く言葉も純粋になのです。
そう考えると、確かに稽古は素晴らしいのですが、結果的に最初喜んで稽古をしていた先輩が心を頑なにして去っていくのです。
特に、級が進めば進むほど、その傾向は強くなっていったのです。
それだけに、黒帯に昇段するという事は、夢のまた夢になっていったのです。
入門は、本人の意思ですが、稽古での訓練は容赦なく試練として襲いかかってくるのです。
極真の修練は、自己の人格の全てを否定するように思えました。
それも、自我がむくむくと芽生えると、容赦なく打ち砕くのです。
肉体的に恵まれたという事だけでは、到底残ることのできない道でした。
その試練に耐えられる人は、入門時の十分の一にも至らなくなるのです。
それでも、また試練は続くのです。
そして、残された道場生よりもさらに少なくなるという事になっていったのです。
まさに、木が切り倒されて切り株になるまで修行は続くのです。
その切り株から、新芽がでて、その芽である道場生が残るような道であったのです。
まさしく、その切り株の新芽まで生き残った道場生が、極真の伝統を受け継いでいく選ばれた指導者のようでした。
それは、今でも同じという事です。
決してやさしい道ではないという事を心して、稽古に励んでほしいものです。
切り株の新芽になることができたら、それは本物です。