2019年4月27日(八段語録3489)
訴え


 どのようにしたら、将来を担う青少年の健全な育成を、極真空手で養えることができるかという事です。
現在、不条理な教育現場が学校を覆いつくしているようです。
決して、教師は生徒を叱ることができないのです。
「鉄は熱いうちに打て」ということは、死語のようになっているのです。

教育現場では、教師が威厳をもって生徒に認められているというよりは、ご機嫌を取って先生が生徒に認められようとしているように思えたなりません。
戦前は、教育勅語のような教育指針のようなものがありました。
しっかりとした倫理・道徳基準が整っていたのです。
今の教育者である教師が、心痛むような悲痛な気持ちで子供達の未来を見つめているのでしょうか。

残念ながら、未来の日本を背負う子供達に厳しく指導している姿が少なくなっているように思うのです。
私達の時代は、担任の教師の指示を生命視していたように思うのです。
もし、先生の指示を拒み背くならば、心が落ち着かなくて誤りに教員室まで行ったものです。
私も宿題を忘れて、何もやっていない時、先生が叱った後で、回答を全部書いてくれて、上書きするだけにしてくれた時もありました。
その時は、心から申し訳なさと、「次は宿題やる」ぞという気持ちを持ったものでした。

高校の時は、校長が校長室に個人的に呼んで、考えを聞いてもらって結果的に褒めてもくれました。
その時は、はやりの学生運動で、デモをして道交法違反で捕まった時でした。
退学になるという気持ちでいたのですが、「お咎めなし」で授業をまじめに受けたものでした。
厳しさも、優しさも兼ね備えて、将来の私の人格を形成してくれたように思うです。

私が、学生の領分を逸脱したようなときでも、「自分に問いかける時間」を与えてくれて導いたのも教育者でした。
それだけに、人としての道を逸脱することなく、このような人生を歩んでいるという事です。
結局、「自分自身に問いかける時間」を多く持ってくれたのでした。

形骸化した教育ではなく、本気に向き合ってくれた教育者がいたという事です。
わたしの見る限り、偽善者であるような教師ではなかったのでした。
それだけに、正義を貫ける自分の姿を、教育環境によって育てられたという事です。

外側は正しく見えても、内側に偽善がある教師であれば、将来の子供達は育たないという訴えでした。
もちろん、私達は極真精神で愛情をもって指導するのです。