2019年2月9日(八段語録3458)
村の共同体総出の葬儀


 妻の故郷の広島県八幡は、海抜八百メートル以上の高原になっているのです。
この地域の村民は二百世帯余りと少ないのです。
高齢化の波がこの村にも押し寄せて、若者は都会へと旅立ってしまいます。
それでも、残った村民同士力を合わせて、村の共同体を維持しているのです。

近くには、スキー場がいくつもあって、村の財政を潤しています。
妻の地域は、八幡地区で、何個か地域があって、一地区なのです。
葬儀は、この一地区の住民総出で行われているのです。
村の責任を持つ人が、司会進行から食当に至るまで、きめ細かく配慮するのです。

それもそのはず、高齢化が進み、葬儀が月に何度かあるという事でした。
そして、弔問に村の人たちが全員訪れるわけです。
それだけに、会場は満席状態になっていました。
村人全員で故人を懐かしみ、讃える葬儀になっていました。

確かに過疎化は進んでいるという事ですが、村民の絆は都会と比べることができないくらい密度が濃いのです。
御寺の住職のお経は、浄土宗大谷派で、簡略ではなく最後まで読み上げていました。
告別式、そして火葬場を経て納骨と筒がなく行われました。もちろん、初七日も供養です。

 さて、お経は、流れるように語りかけます。
意味は、教本が漢字で書かれているので、理解することができるような気がしました。
漢字の並びは、反意的パラレルリズムのような修辞法でした。
例えば、「正しい者」と「愚かな者」「悟りある者」と「思慮に欠けた者」というように反意語になっているのです。

 瞑想してみると故人の来世の救いを説いているようでした。
また、この葬儀が、次世代に対しての教育のように思えたのです。
仏と住民が共に住む地域に見立てているようでした。
仏のみこころに叶うものとしての訓戒と、訓練を指し示しているようでした。

また、お経の内容は、亡くなった人に対する父母の喜びと悲しみが綴らてているようでした。
そして、亡くなった人が、思慮深い仏になるという事のようです。
人生という長い旅を終えて、収穫の時が死であり、仏への道へ旅立つという事です。
確かに、地上と別れを告げる葬儀ですが、本人の極楽浄土への道が切り開かれたわけです。