2019年2月8日(八段語録3457)
人生の終わりはある


 妻の弟の葬儀のために福岡から広島に取り急ぎ新幹線で向かいました。
夕方七時から、通夜がしめやかに行われました。
妻の弟は、六十二年の人生を完全燃焼して地上を去っていきました。
覚悟はしていましたが、妻の弟の最後の時が来たのです。

正午に広島について、レンタカーを借りて北広島町八幡に向かいました。
営業所から車に乗って、運転免許証を返して貰わなかったのに気づいて、途中待ちぼうけです。
二倍の時間が過ぎてしまいました。
それでも、通夜には間に合うことができました。

広島の八幡高原は、例年一メートル以上の雪が降っているのですが、全く雪がありません。
それでも、通夜の時には、全国的冬将軍が居座って、ちらほら雪が降ってきました。
妻の弟は、農業の傍らスキー場でスキー学校の校長をしていたという事です。
そんなこともあって、「神仏が恵みの雪を降らせたのではないか」と思えるほどでした。

ところで、私は妻の弟よりも三歳も上なのです。
それだけに、人生の終焉が、私自身いつでも来てもおかしくはないと思えるのでした。
通夜の席で感じることは、わきまえないことを捨てて、生きようという事です。
悟りのある道を、まっすぐ歩まなければならないと思うのでした。

まだまだ、この年になって、努力が足らないという事です。
もっと狭い門から入って、多くの収穫を見出すものにならなければと思うです。
要するに、生命に至る門は小さく、その道は狭いという事です。
また、滅びに至る門は大きく、その道は広いのです。

自分に課せることは、常に二者選択という事です。
年齢が高くなろうと、病が襲おうとも、高い志を抱いた原点に返っていくという事です。
通夜の中で、思うことは、例え明日亡くなろうとも悔いない人生を歩むという事です。
交差配列法のように、逆説的問いかけが自分には必要なのかもしれません。

「人生は長くないのだ」という恐れをもって、より良い明察をするという事です。
私自身が見たり聞いたり、経験したことに頼らず、絶えず魂を投入するという事です。
そんな気持ちを、通夜の時に持つのでした。
故人に、心からの冥福をお祈りさせて頂きました。