2019年1月16日(八段語録3445)
極真空手を熱意をもって指導する理由


 稽古は大声を腹の底から出すように指導します。
このような指導は、決して穏やかな優しいものではないのです。
声を張り上げますから、厳しい指導と真剣な指導が入り乱れます。
このような指導は、伝統的に今まで極真の道場では行われてきました。

そのために、近所からの苦情が殺到して、道場を何度も移動してきました。
だからと言って、小さな声で稽古をしましょうとは、決して言いません。
気合を入れて声を出すことによって、真剣そのものの表情になるのです。
それが、極真空手の伝統であると心得ているからです。

極真空手は、世間から受け入れられているかというならば、熱心に受け入れられていると断言します。
もちろん、無関心であったり、変な誤解もあります。
それで、極真空手を選択するかどうかは、極めて御父兄の主体的行為になるのです。
選択してもらって初めて、出発できるというものです。

改めて、極真空手に向き合うことは、私達指導者にとっては重要な事であり、現実社会においては、困難な事にも対処できる能力を道場生は見出すというものです。
わきまえのない者達が変わるのです。
というのも、道場生にとって、道場は大きな声を出すことによって、自ら叱咤激励するのです。

要するに、道場生のエネルギーを礼儀正しい人格へと導くのです。
「立ち返る」「向きを変える」には、大きな気合と共に、効果抜群という事です。
このような促しを、道場では毎日行われているという事です。
それも、一時的な事でなく、道場生が修行している期間、何年も何十年に渡った行われるのです。
稽古をしている道場生に対する約束できることは、「魂の宿る生き方ができる」という事です。

いつの間にか、道場生が人として、安全に暮らすことができる教養を身に着ける稽古にもなるのです。
「平安」と「安全」が約束されるような稽古であり、人生をもたらすという事です。
そのような保障をするための、日々の稽古であり、指導なのです。
逆に、稽古を疎かにするということは、災難がつむじ風のように襲うとき、どうしようもないという事です。

稽古を止めた道場生が、もっと一生懸命にやっておけばよかったという時は、すでに遅しという事にもなりかねないのです。
破滅をもたらすのは、環境や相手ではなく、自らが稽古をしないということで、招くだけなのです。