2019年1月11日(八段語録3441)
純粋な心で問題提起


 私個人として、いつもながら、問いかけることが多くなっています。
それは「確かめる」「把握する」という意味です。
実に人生の技術として高め、人生の本質をはっきり見定めるという事にもなります。
それを、「知恵」であると思っていました。

若き青春時代は、極真空手の精神、技術的な技、上手さ追求してきました。
それを、人生を刻む技術として高め、この道で世間を渡り、人生の本質を見定めようとしているのです。
そうした視点での人生に対する問いかけに、見定めてきたのを、それなりの「知恵」としました。
世間の情報だけを頼りにするのではなく、私からの問いかけもして人生を真剣に歩んできたのです。

ところで、今は「なぜ」「どうして」「いつまで」という問いかけをするに値しない事も起きています。
私の持つ常識的な概念が打ち破られる思いです。
より深い疑念を隣国に持つようになりました。
もう、個人として知恵を働かせる範疇を越えてしまっているようです。

私は、修行者であり、求道者という立場で極真の修行をしてきました。
真理の探究心を研ぎ澄まし、最高の道を推し進めて歩もうとしたのです。
しかし、この隣国に対しては、私の知恵の範疇から無くなってしまいます。
「日本は、何も抵抗しない」ということから、理不尽なことをこれからも続けるのでしょうか。