2012年10月27日(八段語録1848)

教育の限界(2)


 私は、いまだ、六十年の歳月を生きてみて、子供たちがどのように生きなければならなかったのかという指導が、できていないと感じるのです。そして長男が大きくなって、恋をして結婚したのですが、理想のアドバイスはできていなのです。そのような事は、本人同士が考えることで、干渉すべきではないという事なのでしょうが、それでも、子供たちが大きくなって、私がモデル的段階を提示しているかというならば、不十分の何物もないのです。またそのような事を、道として追及するのが、私の性分なのかもしれないのです。
 もう少し、踏み込んで、子供たちの教育の教本を今作成しようとしているという事なのです。そして、子供たちの教育の教本を立てることができて、初めて道場生に応用できるという事になるのです。子育ての教本、夫婦の教本、親の教本を、テキストとして示すことができれば、人生晴れやかなのですが、試行錯誤の段階であるというのが正直な内容なのです。
 もし、そのような教本が完成したならば、道場生はもとより、わが子の道も、しっかり指標を出せるだろうに思うのです。しかし、それが不十分であるので、私が八段語録で表現した内容を土台として、開拓してもらいたいのです。今日の発想は、消極的なのですが、仕方がありません。そのように思う時もあると、自分に言い聞かせているのです。
 それでも、経験値を通じて、男性はどのように生きなければならないか。女性はどうすべきか、家庭においてどのように生活しなければならないかという事を研究するのも、これからのことなのかもしれないのです。今まで、一生懸命生き続けて、個人の体験はありますが、教本として提示するところまで行っていないのが現状なのです。
 極真空手道を通じて、道場訓を提示しながら、本来の人生完成を目指そうと更なる決意をするのです。それにしても、課題が多すぎる人生であると、考えてしまうのでした。科学や文化は、継承することができるのですが、人の一生は、絶えず赤ちゃんから出発するので、積み重ねができないというのも障害になっているのです。それは人間ですから仕方がないことなのかもしれないのです。割り切れればそれに越したことがないのですが、それ以上に、考え込んでしまうのでした。