2012年10月24日(八段語録1845)

極真会館が道場生を教育する理由(2)


 道場生が、しっかりとして極真精神の教育をうければ、「私はどのよう欲したいのだろうか」という事を考えるときがあるのです。「私が、道場生をこのように育てたという誇りに満ちてくるし、道場生が道場で教育を受けた以上に、社会に極真精神を広めて欲しい」と願うようになるのです。
 そして、道場生が今後行くべき道とは、彼らが成熟して、社会に貢献できる人物になった時に、私は報われるようになるのです。そのようなことが、最大の刺激であり、自分の人生の衝撃になるのです。
 したがって、私自身が差し置かれようが、道場生の活躍する姿を見ることが、刺激の対象となるのです。たとえ、道場生に感謝の念を持たれなくても、それは結果として嬉しいことであり、感謝されなくても、それは悪いこととは思えないのです。
 何故でしょうか。道場生が世間に認められ、信頼される位置に立っているときに、喜びと刺激を感じるのも私だからに他ならないのです。それが、道場を運営して良かったと思う価値的な刺激を感じるという事になるのです。これが、道場を運営していく上での第一の法度であるし、道場生をより教育していきたいという気持ちを進みださせる原動力になるのです。
 しかしながら、二十年近く道場を運営し、極真精神を通じて、どれだけ道場生を世間に送り出せたかというと、まだまだ足りないという結論しかないのです。道場で教育するにおいても、極真精神で礼法を指導し、極真の理想に近い立場で、育っていったかというならば、不十分であると認識せざるを得ないのです。まだまだ、道場生に教育しなければならないことがたくさんあるのです。
 そのような意味において、八段語録でこのように、私の気持ちを発信していることは、重要な事であるし、これからも続けていきたいと思うのです。自分の気持ちを、正直に書くという事は、誤解も生じるかもしれませんが、それだけに責任をもって教育し続けたいと思うのも今日この頃なのです。