2012年10月21日(八段語録1842)

教育の目標と指標(2)


 一つに道場で、道場生がお互いに意見が異なって争うようになっているときに、指導者はどちら側につくべきでしょうか。先に手を出して自分の欲心のために争う道場生側につく指導者はいません。ですから、教育と人倫道徳の標準という事を考えると、「良くありなさい」という事なのです。
 そういう意味でも、高次元的なもののために尽くしたいという思いが、育まれるような道場にしなければならないのです。しかし、稽古をしたからとて、すぐに結果が出るのではないのです。道場の中で指導者から教育を受けて、道場生の心情が高まらなければならないのです。言い換えれば、道場生の人格、天稟、それらの内容が、日々の稽古の中で育っていかなければならないのです。
 そして、震災のボランティアや社会活動を経て、社会に貢献できる道を切り開くことが願われるのです。そのような環境を道場は形成していかなければならないのです。社会に必要とされる立場に立たなければならないのです。そのような、訓練所が道場という事になるのです。その安定した環境がなければ、不当な利益をむさぼるような輩にしかならないのです。かつての弟子が、そのような道を歩んだことは、本当に心が痛むのです。
 ところで、歴史上に現れた英雄や偉人は、個人の欲望をもって世界を制覇しようとするならば、たとえ苦労の過程を経たとしても、必ず歴史的な批判を受けるのです。そのような道は四方八方ふさがれることになるのです。かつて戦前の日本の軍部がそうでした。それは、私たちにとってはかえって、そのような道を選択しないように訓戒できる教材になるのです。
 そのような不祥事が道場にあればあるほど、それを防御する一つの条件になることもできるのです。正しい精神に立脚した苦労が多くの人々が認める立場に立った場合には、それを道場が目標とする戒律の標準として、あるいは、社会的協力の土台として,理念の中心にするのです。これは、精神を鍛えれば、良心が作用して、正しい方向に向かうのです。