2012年10月16日(八段語録1837)

武道教育の意味(2)


 極真空手で修行をするのですが、道場生が修練の道、あるいは教育の道を行くのですが、その目的はいったいなんでしょうか。より素晴らしい人格を形成するためです。より個人としても価値的内容を備えるためなのです。ですから、一生懸命修練するという意味は、高いレベルに引き上げるために他ならないのです。
 それは、本人も含めて、家族が間接的に、目的追及の道を究めているという事実を、指導する中で強く感じるのです。道場生が、指導の先生から学ばなければ、極真空手と通じる道はありません。よく、かつては親が指導員のような立場に立って、子供を教育しようとしたことがありました。そのような事では、極真空手の真実の内容は身につかないのです。
 道場が目指す法度を通さなければ、極真空手を実践する道がないのです。ですから、道場が、道場生にとって、最初の関門になるのです。それだから、浮き沈みがあり、道場の敷居が高くなったりするのですが、それは、越えるべき試練という事になるのです。そのような事での教育という事が、実際に行われるわけです。そして、この道場の教育内容が本人と家族の礎となるのです。
 この道場は、特に教育が中心になっています。道場で修練することによって、肉体的にも知的にも、知らなかった内容を少しずつ知っていくのであり、鍛えられていくのです。毎日が道場で行われることは、教育強化であります。教育強化という事は、現在の自分よりも一次元高いところに引き上げていく努力をすることなのです。このことは、指導者としての私をはじめ、全員が取り組んでいるのです。
 具体的にはこの道場が、道場生が稽古をして、損害を被るような指導はしないのです。今日の稽古で現在よりも一歩前進することができ、後退しないような努力が必要になってくるのです。
日常社会生活に必要な精神を対人関係も含めて、激励し、道場生に力を与え続け、道場に通うたびに毎日影響を与えていかなければならないのが指導者という事にもなるのです。
 道場は知識を教えるだけでなく、言葉の一つ、行動の一つ、すべてが教育なのです。服装を見れば、その人の心と体の反映となり、服装までもその人の人格を反映するものであることを指導すべきなのです。