2012年10月7日(八段語録1828)

極真空手に対する姿勢


 ある意味で、自分なりの稽古を行ってきたと思うのですが、それではちょっとよくない方向に向かいます。極真空手はすべて大山総裁の意志で行われたものです。すべての稽古は、かつて総裁が鑑定して決定したのです。総裁が許可しなければ、それに手を出すことはできなかったのです。
 総裁の書籍が数多くあります。それを読みながら、本以上の総裁を見出すべきです。本を無視して、宝の持ち腐れにしてはならないのです。私は本部道場で、実際に指導を何年も受けたのです。それは最強の空手でした。本に、稽古の集大成がそこに記録されているのです。
 私も同じ稽古を何千回、何万回繰り返してきました。繰り返すときに、最初の四十数年前に実践したことの意味が、今理解できるようになるのです。極真空手には、極真に触れていない人も、何か神秘さを感じるのです。
 かつて、青春時代、極真空手に触れて、夜も眠れずに興奮したときがあります。道場に通うことが嬉しくて仕方がありませんでした。何か学生運動につかれていた時だけに、極真空手に触れた時に、眼から鱗が落ちるような思いでした。なんて無駄な人生を過ごしているのだろうと思ったものでした。
 そこで、問題は何かという事ですが、稽古をしなくなるという事が問題になります。何年間だけ稽古をすればおしまいという内容ではないのです。強靭な力を、稽古は持っているのです。人生を歩んでみて、この原点に返るならば何でもやり直せるという実感を持つに至るのです。