2012年10月5日(八段語録1826)

指導員の姿勢

 指導員には余裕がなければなりません。稽古の全体を考えることにすべての神経を注ぎながら、頭ばかり使って稽古をしてはならないという事です。自分の心の中に、大山総裁を描きながら、総裁と共にある自分と一つになれる、そのような余裕が心の根底になければならないのです。その内容は、極真精神として先輩方から学ぶべきです。
 それがなければ、極真の精神が伝わらないのです。稽古の骨子ばかりにとらわれてはいけないのです。稽古内容は自動的に分かっている立場に立ち、心に余裕を持ち、今日の稽古は何が願われ、どのように指導すべきかを検討すべきなのです。道場生に気持ちを乗り移させるような心情が誘発されるような指導ができるようにすべきなのです。
 ただの技術指導であってはならないのです。極真の精神で、道場生が指導者と一つになって、リセットされて生まれ変わるような気持ちを感じさせなければ、指導はマンネリ化してしまうのです。稽古内容は流れを示しますが、そこに魂が投入されてつくり直されるのです。
 私たちが教室で指導する時に、大山総裁が築き上げてきた伝統の基準があり、指導はそのレベルの中になければ、指導員の資格はないのです。そのような意味では、必ず大山総裁を中心として稽古をすべきであるというのです。
 何のためにそのような事を言うのかというならば、極真の伝統を蘇生させ、その力強さを本来通りに作り上げるのです。そのために気持ちのレベルが高くなければならないのです。そして、稽古の最後には、今の極真会館がどのような立場に来ているかを言えるような稽古でなければならなのです。ですから、稽古の始まりも極真精神であり、終わりも極真精神になるように指導すべきなのです。