本部長通信182  2008年5月15日

開拓の道(2)


 極真会館宮城県本部の歴史は、私という師範を責任者にして、現われてきました。師範たる内容を問われる歴史といって過言ではないのです。手塚会長と安斎副会長がいて、その中で、どのように開拓していくかは私自身の責任分担にかかっていたのでした。
 師範が開拓していくために、二つの課題が横たわっていました。ひとつは、師範としての立場が築くことができるかということです。二つには地域社会から認めてもらえるかということでした。
 第一の師範としての立場を築いていくことができるかということに関しては、選手時代と違って、自分の実力は30%程しかないと感じています。最も重要になったのが手塚会長の信頼を受けることができるかでありました。それゆえ、理想と夢の確認をしていったのでした。そこで、会長より、宮城県本部本部長としての認可を受けることができたのです。ともに理想と夢を追っていく間に、手塚会長より極真会館の7段の位を賜ることができました。極真空手歴30年目のことでした。かくして、手塚会長より、絶大なる信頼と祝福を受けるに至ったのです。
 私は手塚会長の信頼を重んじてともに歩むことを決意していきました。ところが、私よりも、早く手塚会長に馳せ参じて共に、3年余りの歳月を歩んだ師範がおりました。経済的な問題で躓いて、信頼という重要な心を売ってしまったのでした。それゆえ、手塚会長の心を痛めたのは言うまでもないのです。
 師範は、信頼と祝福を受けましたが、それでは、使命を全うできないことは十分に理解できるのです。そこで、第二番目に地域社会から認めてもらえるという道をどのように開拓していくかでありました。地域社会から認めてもらうために、努力を惜しまず歩んでくれた人が妻である千順さんです。師範の目的達成のために、共に協力したのでした。ゆえに、師範としての開拓の道においてあらゆる立場で協力を惜しまなかったのでした。それゆえ、更生保護のボランティアである保護司や消防団活動、そして青少年の教育と公の仕事を十二分にすることができたのです。
 
師範稽古 お休み 疲労蓄積