2018年12月18日(八段語録3428)
世界大会で準備できるもの
この大会で、極真会館手塚グループにとって、世界が家族になるという事です。
もちろん、家族として運営してきましたが、更なる絆を築くという事です。
このグループを構成するメンバーは、極真という武道の伝統の下に、最後まで残っている道場生です。
厳しくもつらい修行でありつつも、膨大な数の大家族に膨れ上がっているのです。
そして、極真手塚グループが、これから世界に貢献していく第一歩が、この大会です。
極真大家族という合意の上での、武道修行の契約を手塚会長と結んできた歴史なのです。
今までの手塚グループの歴史が、この世界大会が出発点になるという事になるのです。
私たちは、自分達が極真の家族になるためにふさわしい規範としての、関わり合いを持っているのです。
私たちの精神は、空手修行だけでなく、すべての生活の領域に及んでいるのです。
それは、手塚会長が築いてきた精神であり、その精神が、極真空手を通じて表すのです。
そうすると、今までの歩みは、家族として一つの成立するプロセスであったのであり、プロローグ的位置という事であります。
世界大会の開催は、僅かでありますが、家族としての伝統を打ち立てようとした最初のストーリーになると思って、楽しみにしたいのです。
それも、極真空手は、世界におびただしく増え広がったのです。
もちろん、マスメディアの力は大きかったのです。
しかし、世界は、メディアの力だけではなく、武道空手そのものに、心を奪われたのです。
今でも、世界は、すこぶるひしめき合い、増えて、強大になり、世界の多くの地方で極真空手の道場の看板が目につくのです。
さて、極真の草創期の頃、おびただしく増加する道場生に対して、世間は驚いていました。
何かしら、伝統空手にとって、極真空手が脅威になっていた節もあったのです。
それだけに、当時は、多くの批判と非難が舞い込みました。
もちろん、内部にも問題が多く、道場生同士のいじめもあって、強いものがターゲットになったのでした。
しかし、そんな批判をよそに、道場生は増え、さらに内部でも改革がなされたのです。
それは、道場生が極真空手を愛したからであり、指導者も成熟して行ったのです。
そのような極真空手に、十代で柔道からの転身を図ったのが私でした。
不思議な出会いという事にもなるのです。
話はちょっとズレるのですが、私の系図を見ると、伊達藩士の末裔なのです。
私の母方の叔父は、剣道六段の腕前て、県の大会では決勝を争っていたというのです。
私の顔は西洋人の様で、母の父親からは、ナポレオンというあだ名で呼ばれていました。
髪の毛も赤毛で金髪のようだったというのです。
今では、面影もないのですが、小さなことは、可愛かったという事でした。
恵まれて、母の父親に面倒を見て頂いて、伊達藩の話をよく聞いたのでした。
これも、天の計らいで、武士としての心構えを育てられたのかもしれません。
確かに勉強も少しはしましたが、柔道のような武道に熱中していったのです。
しかしながら、高校二年になると、何に血迷ったのか、家出をしたのです。
森家のプリンスも、家出をすると、世の中では、一兵卒という事でした。
それで、たどり着いたのが、自己管理をベースにするということで、極真空手であったのです。
精神的に修行をするということで、正しい生き方を選択しようとしたのです。
世間の荒波の中で、極真精神を貫いて、気が付けば四十歳を超えていたのです。
妻と子供三人と故郷に帰って、森家を率いるようになると、手塚会長が傍にいたのです。
それから、二十五年の歳月を会長と共に、指導者の道を歩んできました。
そして、最も多くの指導を受け、一対一で会話したのでした。
その二十五年間の歳月は、今の立場で歩む上での内容なのです。
そして、来年世界大会という事ですから、人生の六十五年を捧げる覚悟なのです。
私が、手塚会長と一問一答しながら、過ごした二十数年は、手塚グループの開拓の時でした。
時間が、思いっきり早く過ぎていったという印象なのです。
修行時代に培った知識は、この時にすべて発揮されたといって過言でないのです。
一つの家庭を持ち、学問をし、極真空手の指導に力を入れたのです。
決して、静かな生活ではなく、世界中を回り歩いたのでした。
そして、今は、天に訓練されたという実感で、いざ出陣という気持ちなのです。