本部長通信181  2008年5月14日

開拓の道(1)


 極真会館宮城県本部の指揮官は師範なのです。師範が責任を持って道場生を教育しているのです。しかし、道場の指導員は、現場の道場生を指導するのです。信頼関係を持つようになるのです。それゆえ、主人であるかのような錯覚に陥っていくのです。かつて離れた指導員がそうでした。指導は、統制力・支配力を伴うものであるのす。たとえ、それが、師範を裏切った形であれ、道場生に対して、その所有権を主張するだけの力、あるいは権威とか権利と持つわけであります。結局師範と指導員は、ともに、道場生に対して、その所有権を主張することが出来るようになるわけです。
 この指導員の分離行為ゆえに、道場生を分断して師範と指導員との間で分け合うことは物理的に不可能であります。それゆえ、分離した時の、ルールを定めてあるのです。それは、内外、表裏、主体対象の関係と等しく、去る者は追わず、来るものは拒まずということでした。それゆえ、すべてを置いて、新たな空手以外の道で歩むようにということだったのです。
 最悪のパターンが生じた時から、3年余りたちました。分離行為はないのですが、再び師範と指導員の立場を整理してみたいと思います。師範は一人ですし、すべての責任を負っています。どちらかといえば、道場生には見えない立場です。指導員は具体的に道場生と接しているわけですから見える立場なのです。人間に例えるならば、心と体にあたると思います。
 そこで命令系統で考えると、師範→指導員→道場生で流れていくのです。分裂行為によって道場の命令系統に傷がつきました。言い換えると、分離の指導員が道場生を占領したことになります。こうならないためには、根源までさかのぼっていかなければならないのです。その根源とは師範の人格ということなのです。いわゆる反逆させるだけの人格では駄目だということなのです。
 分離の原点は、本人にも多少問題はあるのですが、根本的には師範の人を指導する指導力のなさなのです。ですから新たな運営も師範の人格からなされなければならないのです。師範の人格が分離の出発点にもなったのでありますから、その原因に戻っていかなければならないことになります。いったい師範はどうしなければならなかったかというと、指導員の位置に降りなければならないのです。おのずと指導員は師範の位置に上がらなければならなかったのです。そこで、問題が解決されたのです。ところが、指導員が師範に見切りをつけたのでした。この行為は武道を指導する者としてやってはいけないことだと思います。師範は、結論としてもっと人格を磨くべきなのです。
 
師範稽古 長町教室 中江本部選手会 蹴り40分