2018年9月13日(八段語録3394)
冒険

 私自身欲張りな人生を歩んでいるのです。
何でも思いついたことは、実践してみたいのです。
創造性が頭を去来して、実現可能であると思うといつの間にか行動に移しているのです。
あらゆることに挑戦して、冒険を挑むという事なのです。

それだけに、レールが引かれている生き方などできないようです。
私の暮らし向きがどうあれ、結果的に食べていければ良いという発想なのです。
財産を蓄積して、備えるという事は、まったく考えもしないのです。
それが、最高の生きがいある人生と認識しているのです。

人生を歩んでみて、苦しい状況に処している時は、誰かに保護されているのです。
また、戦うときには、一緒に戦う人がいて、同じ境遇で生きようとする人が現れるのです。
いつの間にか、伴侶をむかえるようになり、私が泣ければ共に泣いてくれ、わびしい時に一緒に居てくれるのです。
「三度の食事がままならなくても、共に水を飲む」という妻がいてくれたのです。
こんな環境を与えてもらっての人生ですから、有難いことです。

それだけに、栄光の道を歩んだという事よりも、挑戦と冒険の道なのです。
どちらかといえば、安定した人生を歩んだという事ではないのです。
胸が痺れるようなことも何度も訪れ、涙が目頭を濡らして前を塞いだ時もあったのです。
自分の足場を作るために、人生に負けることはできないという気持ちだったのです。

 さて、振り返っても、全てが準備されて安楽な生活環境ではないのでした。
あり得ないと思うのですが、飢えようとするときも、耳パンをパン屋から貰ってすごしたのです。
確かに環境は生活にも困るようでしたが、苦にもしなかったのです。
それだけに、犯罪に身を染めるという事は一切考えもしなかったのです。

冒険するために、理念をしっかり定めて、心を明るくすることを意識したのです。
その時は、夜寝ることも考えなかったのです。
何度も机に座って、スズメがチュンチュンとなく声を聞いたものです。
空手ですから、手が裂けようが、足が折れようと前進するという意識でした。

それだけに、道を行くものとして、道理を尽くすという事だけを考えていたのです。
その手本はというならば、両親であったことは間違いのないことです。