2018年9月11日(八段語録3392)
人生の収穫

 人生八十年という事をよく聞くようになりました。
特に、保護司の先生は高齢の方が多いのです。
私も御多分に漏れず、高齢に成りつつあります。
市のスポーツ施設を利用すると、高齢者ということで料金の割引制度が利用できるのです。

ともあれ、この高齢に至ってきているのですから、人生の収穫時期に来ているのです。
若い青春時代の春に種を蒔いたのが真夏を通じて育ち、秋を迎えてその収穫をするのです。
刈り入れの喜びと、蒔く喜びを味わったかというならば、残念な事に十分ではないようです。
それでも、確かに青春時代に植えた種を、借り入れを迎えているという事は確かなのです。

私の手で借り入れようとする収穫、一粒の収穫は、神仏の加護があっての出来事でしょう。
そして、蒔いてきた種を、雑草を取り除いて収穫するという時期に来ているのです。
種として蒔いてきた夢や理想が、今にして花が咲き実を結ぶという事なのです。
現実は、もっと大きな夢や理想があったはずなのですが、雑草が多く収穫は少ないようです。

大山総裁から出発した極真空手を、手塚会長が継承して私達に伝えてくださいました。
今にして思えば、継承して下さった手塚会長に、私は百%合致したのでした。
つまり、二代目として立って下さったことに、今さらながら感謝という事です。
もし、合致していなければ、もうすでに放り投げられて跡形もないという事だったでしょう。

 さて、言いたいことは、人生は種蒔きがあって、収穫もあるという事です。
育っている途中で幹を折られたならば、収穫は望めないのです。
実際に、極真空手の分野以外に種を蒔いて育ててきた内容があるのです。
その種が、途中で変質してしまったものがあるのです。

その変質してしまった種を、修正しようとするならば、とんでもない行動にもなるのです。
私の場合、修正しようという行動には出ないのです。
どちらかといえば、麦踏みをするような感覚なのです。
寒い冬を通り過ごすために、しっかり根付かせるという作業をしているのです。

それも、変質していない状態を維持して、春を待つという感覚なのです。
元の種と、変質した種を同時に育てないし、まして変質した種に乗り換えないのです。
じっと、今まで蒔いて育ててきた種の充実を図るというものです。

極真空手では、手塚会長という変遷に順応することができたのです。
それも意気投合という事ですから、生き生きして極真空手に打ち込めたのです。
しかし、もう一つの種の変質には、我慢がならないのです。
それだけに、原点に立って、時を待つという姿勢を貫こうとするわけです。

 ところで、極真空手以外の分野で、大きな波がぶつかり、ここに一つの波が突き入るというところなのです。
私の場合、現実に起こる思潮や問題を越える、高気圧的な台風の襲来と捉えているのです。
正しくない種にならないという作業が続くわけです。
雑草のようにはならないという信念が強いのです。

それだけに、修道の道と捉えて、自己否定を積極的に行うのです。
本質的な内容を否定するのですから、修道の道の出発と捉えるわけです。
最高のレベルまで否定して進むという事に誇りを持つのです。
しかし、決して表現することは無いのです。

だからといって、逃走者にはならないのです。
私としては、寝ても覚めても、現状をどのように突破するかを骨身に染みさせています。
そのよう道を開拓するのが修道の道であり、あらゆる事情を汲んで前進です。
とても高度な戦いなのですが、人知れず戦いという事にしているのです。

要するに、しっかり収穫できるものもあり、もう一度土に埋め戻さなければならないものがあるという事です。