2018年9月9日(八段語録3390)
老化との戦い

 修行の道は続いています。
一般の市民は、生活を安定させるために仕事をするなど、日々の糧を得るために働きます。
私達の場合、心の修行を追及することを第一にして、生活を度外視して生きてきました。
要するに、普通の生き方からするならば、少数派に属することになります。

それも、指導者となると、現役の選手よりも、さらに魂を磨くように仕向けられます。
現役で苦労してきた修行時代に輪をかけて、道場生の為に心を砕く苦労をするのです。
現役の苦労よりも、道場生を愛する修行は、一段階を高い高度な戦いになるのです。
道場生を愛する戦いは、現役で苦労したがゆえに、大きな心で抱けるというものです。

一例を上げると、私はあるボランティア団体を来年の三月で卒業するのです。
その団体では、本部の責任ある立場に立っていました。
その部所で味わったことは、人生において初めて経験するに至ったのです。
例えば、人権蹂躙・下克上であったりしたわけです。

それだけでなく、公的な資金を操作しながら、飲み会に流用することだったりしたのです。
私の物差しでは、許しがたいという事で、訴え出たのです。
直属の上司からの叱責もありました。
しかし、私の物差しという事ではなく、あくまでもスタンダードであると認識したのです。

 さて、その結果、その団体の責任者は私を許せないようです。
しかし、私は、団体の指導者は許せるのです。
それでも、個人は許せても、その公金に対するいい加減さは、許すことができないのです。
まして、人権蹂躙に対しては、納得するはずもないのです。
そのような体験を、人生の中で味わう事ができたという事は、一回り人格が大きくなったような気がします。

そのような進言ができたというのも、少数派でありながら、修行を重ねた結果という事です。
それで、私の取った行動は、受けた大きな苦痛よりも大きな愛情をもって包んだという事です。
血気・怒気に走ることなく、ただ忍耐することができたという事です。
この団体での私の進言は、行政から団体上げての調査に発展したのです。

それで、修正することができたかというならば、否なのです。
手に変え品を変え、公金を集めては、所属する本部の長の自由になる金になるのです。
私は、排斥され窓際に置かれたことに関しては、記憶せず忘れるのです。
理由は、極真の辛い修行に比べるならば、何でもないと思うからです。

修行の道を行く人間は、人権蹂躙であれ不正な公金流用であれ、記憶はできないのです。
邪悪なる垣根は取り除かなければならないとおもうのです。
それだけに、記憶から一層するという作業もするわけです。
それが修行の道というものであると、心得ているのです。

 そのような作業をするにしても、六十五歳になると、退化しそうなのです。
それだけに、心身ともに鍛えなければならないであろうと意識するわけです。
邪悪なる暗黒の裏面に入ることなく、喜びと感動に満たしたいという事です。
邪悪なる垣根を取り除いで、善意で心を満たしたいと考えている昨今です。

やはり、要求したことは、正しい事と思うにしても、それで終了です。
根に持つことのないように、整理をするという事です。
根に持つと、私自身が滅んでしまいます。
もう、最悪の団体での活動の全ては忘れるのです。

何事も無かったように、修行の道を続けるという事です。
人を利用して思いを果たすよりは、忘れるという作業に取り掛かるのです。

問題提起をしたのだから、あとは忘れるのです。
それができるのであれば、老化はしていないという事の証明になると思っているのです。