2018年8月18日(八段語録3373)
世界大会に向けて 昔の教訓から学ぶこと


 若き青春時代に極真の道を目指したことに誇りさえ持っているのです。
色々な人生の選択肢はあったのでしたが、自己管理という観点ではベストの道でした。
六十五年の人生を一筋に極真の道を歩んでこられたことに心から感謝の念が湧いてきます。
それにしても、修行の道でしたので、「よくぞへこたれずに続けてこられた」と胸を撫でおろします。

特に大山総裁から段位として初段を頂いたときには、全身傷だらけで夜も寝られるものでは無かったのです。
体の苦痛よりは、黒帯を取得したという気持ちが強く、天にも昇るようでした。
当時は、昇段の審査の基準があって、基本・移動・型は当然でした。
最後の決め手は、十人組手で五人以上に勝ってなければ昇段は無理でした。

それだけに、昇段審査一回でクリアできるというレベルでは無かったのです。
本当の意味で、私が、極真の指導者として、定着する第一歩であったのです。
昇段をしてから、地方大会から勝ち上がって、全日本にコマを進めました。
それでも、二回戦から三回戦が、私が行きつくところの最高の戦歴という事でした。

その時の私の評価は、最高年齢での大会参加が長く続いているという事でした。
結局、当時としては三十四歳まで全日本の舞台に上がっているという事は奇跡のようだったのです。
好きで年齢が高くなった訳ではなく、悩みが尽きず、初段を頂いたのが二十八歳の三月だったのです。
昇段するまで、十年の歳月をかけたのですから、色帯時代が長かったということです。
それだけに、初段に対する愛着があって、四十四歳まで初段でした。

 初段から本格的な選手としてスタートをしたのでしたから、年齢が高くなるのは当たり前という事でしょう。
選手として最後に出場したのが、秋田での東北大会でした。
前後して、2000年12月に手塚グループで、全日本三十二回大会を仙台で開催したのです。
グループ全体の一般部だけの大会でした。

当時、仙台道場は一般部だけでした。
一般部の道場生が精力的にスタッフとして協力してくれました。
基本的に私が実行委員長として、全国の選手参加依頼からトーナメント表の作成までいたしました。
特に、大会経費が増えるので、広告費を四百万程調達しました。

さらに、チケット販売をするという事で、百万程の売り上げ目標で取り組んでいました。
さらに、選手からの参加料が六十万程でした。
合計、五百万での大会運営で大会当日に臨んだのでした。
舞台の設営を業者にお願いしたので、百万円以上も掛ったのが記憶に残っているのです。
もう少し、自分たちで行えば節約できたという事でしょう。

大会当日は、グランデーの客席は一杯になっていました。
極真の伝統に則って、開会太鼓からセレモニーを始めました。
もちろん、私が開会太鼓を叩いたのですが、「ばち」が折れてしまいました。
それだけ、緊張をしていたという事なのでしょう。

 というのも、選手として大会に参加してきましたが、大会の運営という事になると、素人という事なのです。
それでも、手塚会長から大会のマニアルを頂いていましたので、運営はスムーズに進みました。
結果、大勝利に終わったのです。
責任感だけでもって、最後までやり遂げた時には、一生忘れることができない思い出になったのでした。

素晴らしい大会に終わりましたが、大勝利した後、刀の鞘の納め方が大切であると思えた大会でした。
というのも、大会主催者が手塚会長に文句を言ってきたのです。
私の立場は師範代でしたので、特に会議に出席する立場ではなかったのです。
素晴らしい大会であっただけに、主催者が手塚会長の言う事を聞かなくなったのです。

この大会を契機に、大会主催者と手塚会長が袂を分かれるという事になったのでした。
道場を運営していた私は、当然手塚会長と生死を共にするようになったのです。
翌年からは、手塚グループ宮城県本部として立ち上がったのです。
もうすでに、手塚会長の人格に心が引かれていたのです。

もしも、大会主催者が、そのまま手塚グループに残っていたならば、空手はボランティアで私は税理士にでもなっていたのかもしれません。
結局、この三十二回全日本大会後、生命を懸けて、手塚会長を支えるという姿勢の宮城県本部が出発したのでした。
 教訓は一杯あります。
大会を勝利したからと言って、天狗になって手塚会長と袂を分かつという事は、勿体ないという事です。
極真会館の分裂以後、全日本とか世界大会で、おかしくなる主催者にならないようにすべきであるというのが、教訓に残ります。
そのような経験から、一生懸命を大会に取り組むと同時に、道を踏み外さないという事だと思います。