2012年9月17日(八段語録1808)

これからの方向性


 極真空手は、私の入門する前からありました。大山総裁が極真空手の出発であり、極真空手の内容であり、私たちの目的とするところがあるのです。当然、極真空手道を追及したがゆえに、私の人生は幸福であったし、誇りになり、権威として高く評価できるのです。
 このような極真の伝統に新たな内容を含めるという事は、至難の業という事になります。それを、本格的に始めようとしているのが、私であるという事なのです。極真空手で経験したすべての知識を動員して次のステージに登ろうと心掛けているのです。
 ところで、私は生きる意味として、残りの人生を全うすればよいのですが、極真空手は、私が死んだ後も続くのです。その様に考えると、このまま消え去ることのない極真空手をどのようにすべきであるかという事が、当然重荷として付加されてくるのです。
 当然、私の姿勢として、極真空手の発展に関しては、一歩も譲らないのです。自分が妨げになるときは、静かに去るだけなのです。極真空手は、これから、青少年の教育、社会貢献に多大なる成果を上げると信じるからなのです。いかなる犠牲があったとしても、この発展の道に避けて通ることはできないのです。
それゆえに、今取り組んでいることが重要なのです。教育の充実を図り、多くの青少年を育成するプログラムがここにあるのです。その作業を、自らを先頭に立て、戦っていこうとするのが、今の私の立場なのです。 
将来の構想を練るにおいても、お金をかければいいというのではないのです。自分が目覚めて取り組んで、真実の追及をするところに。新たなる価値が付与されると思うのです。


独り立ち

 もう一人で開拓する時であると感じるこの頃です。難しい難問をこれから、逃げることなく、取り組むべき時になっているのだと感じるのです。私の性格として、百回難問にぶち当たれば、百回変化してしまう性質を持っているようです。という事は、気持ちがそんなに強くないという事なのです。
 険しい道が待ち構えているとするならば、横道に滑り込みたくなるのです。それでも、行かなければならないと思うのですが、弱い自分との戦いは始まるのです。当然、前進あるのみという結論を出すのですが、躊躇してしまう自分はあるのです。
 さて、自分が踏み出さなければ、どうなるのだろうかと考えると、踏み出さない結果よりも踏み出す結果のほうが、気持ちは納得するのです。もちろん他人の援助なく、一人で決断するのが原則になるのですが。チームワークで乗り越えようとする場面はありますが、原則一人なのです。
 ところで、自分は有能であるのだろうかと問いかけるのです。なぜならば、戦って勝利しなければならないからです。この人生を振り返るならば、勝ち取った分しか有益に分配されないと思うのです。仙台に帰ってきてからの自分を振り返ってみても、安住した気持ちで取り組んだことはないのです。
結構、涙がちょちょ切れるような道が用意されていました。いい年をしたおじさんが、若者に指示されながら仕事をした日々もありました。たえず、躊躇したくなる日々が待ち構えていたのです。そのような立場の解決法は、ただ至誠を尽くすことだったように思うのです。
 弱い自分を奮い立たせたのは、原理原則を貫くという事でした。そして、理想しか目に見えていないという事に徹したのです。たえず古い背広を脱がして、新しい背広で出かけるという気持ちで、古い観念を捨てることでした。そのような意味では、あまり急がずに、しっかり根付かせようとする気持ちだったのです。深く植えて、遅く芽生えたとしても、生命力のある日々にしようとしたのかもしれないのです。そのようなことを思い浮かべながら、新しい出発をしようとするのです。