2018年7月29日(八段語録3360)
どんなグループを目指すのか


 最近のボクシング界の現状、レスリング界、そして数年前には柔道界と不祥事の報道が多いのです。
それも、悪しき風習が残っていて、協会員のパワハラ、会長の傲慢さ、お金の使い方まで表面化しています。
かつて、柔道界でもセクハラ問題を初め、不祥事の数々が浮かび上がっていました。
国から補助金をもらっているスポーツ団体が、次は私の団体かと戦線恐慌としているようです。

私達のグループは、国からの補助金をもらっているわけでもないのです。
また、家族として、親の立場の指導者はいますが、独裁者はいないのです。
このグループに、何が出来るかという観点で誰もが動いているのです。
それは、私もそうであり、道場を運営している師範たちも当たり前にそうなのです。

このグループの誰もが稽古で成長したいという気持ちでいっぱいです。
小さな細胞から育っていくようなものです。
それは、何によって、成長しようとしているかという事です。
それは、家族を大切にしようとする心でもって大きく成ろうとしているのです。

現場の指導者となって、多くの道場生を見ようとしている訳ではないのです。
どこかの組織のように列を組んで待たせるような事をするのはと頭を傾げます。
道場生とお互いに成長を促し、共に汗を流し、思いやるためにその場にいるのです。
共に、円満に調和して喜びが充満するような環境を作ろうとするのです。

いくら美しい花が咲いていても、香りが出なければならないのです。
また、香りを持っていたとしても、心地よい空気の流れがなければ、香りが漂わないのです。
ですから、お互いに協力するような環境と刺激が必要であるというのです。
それだけに、根源的な力が何であるかというならば、家族的な愛情を持ち合うという事のように思うのです。

私と道場生を比較しても、お互いが食事もするし、目も二つだし、鼻もあるのです。
それだけに、中心に立つ者だけが特別扱いという事はないのです。
お互いに、極真空手を修行してきたという事で、道場生が尊敬するという事は当たり前のことですが、それ以上の事ではないのです。
尊敬されたならば、中心に立つ者の姿勢は、道場生の誰をも愛情で包括するのです。

それだけに、中心に立つものが偉いというのではなく、全体が融合していることが素晴らしいのです。

それだけに、教室での稽古において、お互いに汗を流しているのが素晴らしいのです。
だから、稽古で流れる空気が素晴らしいのであり、指導者だけではどうしようもないのです。
このような稽古風景を作っていく事こそ、手塚グループなのです。

道場というところは、指導者と道場生が介在しなければ、存在しないのです。
お互いが介在して初めて、素晴らしい道場へと成長できるというものです。
それを可能ならせしめることができるのが手塚グループであるというのです。
そこにおいてこそ、指導者が培ってきた技や精神を継承させることができるというものです。

 それだけに、今回のボクシング界の報道に関しては、私達と別物であると思うのです。
偽りの指導を本当の指導であるかのように偽装しているという事です。
自分の為に組織を食い物にすることは、良い事かどうか誰でもわかることです。
天地の道理には全く叶っていないという事です。

指導者は、自分の全てを道場生の為に与えようとする人です。
私の九十歳になる母親でさえ、六十五歳になる息子を捕まえて、「忘れ物がないか」と聞くのです。
それは、昔も今も変わらないのです。
未だに、腹を痛めて育てた息子に対する愛情は変わらないのです。

この歳になっても、九十歳の母親から面倒を見てもらっているのです。
ちなみに母は、ディサービスに週四回通っているのです。
痴呆症も斑に出てきている状態なのです。
それでも、息子に対する愛情は変わらないのです。

息子を見かけると、愛情を注ぐのです。
その愛情の速度は、光の何千倍も速いというものです。
それも、親子という関係があってこそ表れてくるのです。
親子の関係に、誰も入ることができない程、輝かしい栄光があるというものです。
そのような、輝かしい栄光ある手塚グループにしたいものです。