2018年7月16日(八段語録3346)
海の日


 三連休の最後になりました。
ジャガイモの収穫をして、倉庫に保存です。
今年の七月で下宿業は終了したので、ジャガイモは我が家の食糧だけになるという事です。
また、夏野菜達も順調に生育して、キュウリ・ナス・トマトが毎日収穫できるのです。

この年齢になっても、人生今までに、どのように生きることができて、さらにこれからどうすべきかを検討するのです。
それらの発想は、できるだけシンプルにするという事に心掛けようとしているのです。
子供達に対する愛情は、子供達が分からなくても、無限大に注がれていて大きいのです。

例え何があっても、子供達の気持ちに寄り添うという事にしているのです。
私自身、両親の愛情で生まれ、大切に育てられ、極真空手という生涯の道を見出し、その目的に向かって生きてきたのです。
生命が、循環しているかのように、私の親から愛情を注がれ、私が子供達に愛情を注いていのです。
そして、私の人生そのものも、愛情で満たされる日々を求めた人生という事なのです。

言うまでなく、私の人生の中心は、愛情を求めることに尽きるのです。
深く考えるまでもなく、一生の間、自分自身の為に生きているという実感はないのです。
誰かの為に、生きるかという事で、愛情が満たされるという事に特化しているのです。
三連休の最後でも、このような発想が頭の中をぐるぐる回るのです。

 さて、私が愛情をベースに生きるという発想ですから、その目的の為にあらゆる場所を移動しながら生きていることになります。
このグループの責任者になっているので、世界中を駆け回るのです。
世界中に極真手塚グループの家族がいて、その家族を訪ねていくのです。
その事は、どれだけ素晴らしい事であるかという事なのです。

私が、生きることができるという事に、奇跡的な出来事でもあると思うのです。
このような歩みの素晴らしさを何に例えることができるかという事です。
天地がひっくり返るようです。
また、このグループは、決して滅びないという信念に至るのです。
確かに大変なこともあるのですが、汗も涙も悲惨なことも、愛情で越えてしまうのです。

それだけに、私は、このグループで純粋にひたすら道を求めて生きることができるというものです。
このグループが存続している理由は、極真空手を通じて家族が生きる道を模索するからです。
空手修行で汗を流すのも、家族の愛情を育てるためであり、生活すべてが満たされるためなのです。
それだけに、有段者となれば、極真空手と家族が、合わさった目的へと向かって進んでいかなければならないという事です。

私の人生を振り返っても、個人の目的があり、家族の目的を持ち、極真会館手塚グループの目的があり、国と世界に向かっているという事なのです。
そして、私の人生に最後に残るものはというならば、愛情を注いてきた全てであるという事に至るのです。
それだけに、人生の最後の安らぎを得る終着点を見出せるというものです。

私の場合、極真空手で大山総裁に出会う事ができました。
それは大変ありがたい事であり、空手修行の日々が、大山総裁を仰ぎ見るように歩んで来ることができたという事です。
それは、個人の修行としては目標になったという事でした。
大山総裁という人物が居なかったら、私の今の人生もないという事です。

その事よりも、私が指導者になって、手塚会長と一緒に生活するように過ごした日々は、修行時代に及ばないほどの強烈な愛情を感じる日々だったのです。
手塚会長が主人で、私が副会長の相対だったのです。
副会長は私一人でしかなかったのです。

つまり、何事も一緒に考えて、相談しあう関係であったのです。
ちょうど夫婦みたいなものでした。
その期間が、二十数年に及んだのですから、その期間は、とても幸せな期間でした。
どんな大きな組織であったにせよ、一対一の関係で物事を決定してきた優越感は忘れようにも忘れることができないというものです。

最高の目的の一つが、私自身の人生で実現した手塚会長と歩んだ日々なのです。
それは、皇太子として生きる権威を持ったような感覚でした。
このような価値があるのだと、目を疑うような感覚の日々だったのです。
私の価値を決定して下さったかのような手塚会長であったという事です。
そんなことを、連れ連れに表現してみました。