2018年7月11日(八段語録3341)
道場生と寄り添う事を考える


 私の姿勢として、努力しなければならないことは、道場生に寄り添うという事です。
手塚会長の意志を受け継ぐという事で、この一年半の間は、走り続けてきました。
グループ全体に埋没してしまい、宮城県本部の道場生との交流が少なくなっていました。
道場生の御両親にも、森会長の指導を受けたいと熱望する声を聞いたばかりなのです。

確かに、宮城県本部を開いたときには、道場生と一緒に汗と涙を流していました。
その後、手塚会長と全国・全世界を巡回するなかで、忙しさに任せてしまったようです。
そこで、反省をして、改めて宮城県本部の道場生を大切にすることに意識転換するのです。
極真草創期の伝統を培っているのも、結局私という事もあるので、対応をしようと思うのです。

仙台市内の教室も十数か所になっているので、毎日巡回しても二週間に一度でしょう。
それでも、絶えず愛情を注いで、教育していくという姿勢を貫いていきたい思いです。
私の指導者としての特徴は、道場を運営するというよりは、一人一人を教育する所にあります。
そのような初心に立ち返って、健康の許す限り道場生との絆を深めていきたいという事です。

道場は、指導者を中心に一つになるのが本来の姿という事になるという事です。
もう一歩踏み込んで、道場生の心に熱き魂を、投げ込んでいくという事も大切な事です。
もちろん、私の肉体は老朽化しているのは分かりきっていることです。
それでも、今しかやれないことがあるという意識で、投入しようと思うのです。

 さて、そのように思う発想の原点は、実践空手であるという事かもしれません。
決して、妄想的でも観念的でもないという事です。
抽象的な極真空手はいらないのです。
道場での稽古という実践稽古を続けてこそ、極真空手なのです。

常に、道場での稽古の主人として、共に道場生に寄り添わなければならないという事です。
共同して稽古をして、さらに共同して大会に参加して、成長を見守るという事です。
道場という環境は、師範と道場生がタックを組めるという夢のような舞台という事です。
一緒に、汗を流すという起源をつくらなければ、感動も躍動もあったものではないのです。

特に、大会で選手会のメンバーの試合を応援しているとそのような事を思うに至るのです。
選手と一つになって応援していくと、一心同体のような心境になるのです。
このような絆づくりが、これから益々必要であるとつくづく思うようになっているのです。
一緒に道場生と人生を歩むという事で、道場生一人一人がしっかりするというものです。

私自身、道場生とかけ離れて、空中にかけ離れているようでは失格です。
道場生と稽古を共にして、極真精神を伝授しなければならないという事です。
確かに、四六時中極真空手の事ばかりを考えています。
それを、しっかり道場生に伝えるという役割は、これから重要になるというものです。

 ところで、今でもなお、空気よりも切迫するような気持ちでこのグループを眺めるのです。
精神と生活が、極真空手なしには、何の意味をなさないような心境にもなってしまいます。
そして、道場で稽古をして習い、聞き、知るという事は何のためかと問うのです。
もちろん、答えは人それぞれ無限にあるという事かもしれません。

私としての答えは、極真空手を通じて、愛情あふれる幸福を掴んだという事でしょう。
私の名前は,ギドウ(義道)なのです。
義のレベルを立て続けていく人生にしたいという事です。
この義のレベルは、極真空手の修行と切っても切ることができないのです。

その義は、感情的に体現できるようなレベルまで引き上がろうとしているのです。
これが、私の精神に極真空手を通じて新たに設定されている善悪のレベルというものです。