2018年7月9日(八段語録3339)
両親の愛情


 日々生活して、自分の意志に符合する環境になっていない現実を直視です。
思うようにいかないので、悲観することも多く生じて、善悪の分岐が重なり合います。
そんな気持ちも跳ねのけて、家族を守っていこうとするのですから精神力がいります。
家族を守るという湧き上がる気持ちも砕けますが、生涯貫く姿勢は変わらないのです。

少なからず反省することも多くあります。
子供達は、息子を初め娘達が自分の道を切り開こうとしています。
当然、息子は二十九歳、娘達も年齢は離れていませんから、自立しようともがいています。
それに対して、何もアドバイスを与えることなどできないという事なのです。

実際に、子供達は子供達の人生があり、親だからという事で干渉することはできないのです。
それでも子供達の人生に対して、愛情の限りを尽くしてきたという気持ちなのです。
極真会館という道場を開いたのは、結局のところ、子供達の為という事でした。
子育てに対して、空手を通じて対応するという事と、健全な子供達に育てようとする思いです。

聖書に放蕩息子の話が出てきますが、道場生のみならず家族に対しても当てはまります。
子供の人生に対して、最後まで生きている間。責任を持つという気持ちは変わらないのです。
例え、反抗期であっても、それは受け止めてきただけに、これからも私の役割です。
私自身、十六歳から家出を繰り返し、十八歳では完全に親元を去ったのでした。

 その時は、自分の事しか眼中に無かったのです。
振り返れば「親の心子知らず」だったようです。
日本中修行の旅出かけている時も、両親は常に心配してくれました。
住所のある手紙を書くと、訪ねてくるのでした。

私が婚約しようとする人の話をすると、両親は、広島の山奥の八幡村まで出かけていくのです。
もう四十年前の事ですが、仙台から千順さんの実家の住所を訪ねるのです。
藁葺屋根が残った簡素な田舎であったと手紙に綴られてきました。
私は、親の子供を思う気持ちに感無量でした。

それも、千順さんのご両親に手をついて、嫁入りのお願いしたというのです。
この家の娘であったら間違いないという確信を持ったのでしょう。
数年過ぎると、勝手に結婚式を親戚集めて、挙行するのです。
千順さんは、大阪から、そして私は札幌から仙台に駆けつけたのでした。

もちろん、お互いに夫婦生活をするという余裕もなかったので、式の後も分かれて生活したのです。
結果的に遠距離交際は、十年間続いたことになったのでした。
それでも、両親は、「籍だけは入れておきなさい」という事で親が入籍の手続きをしたのです。

結局、私は三十四歳まで選手生活を続けて、全日本が終わって、家庭を持ったのです。
出会ってから、十年の歳月が流れました。
理解することのできない人生を歩んだにも関わらず、両親は見守ってくれたのです。
そのような愛情を両親から受けた私は、子供達に対しても同じようにしなければならないという事でしょう。

もちろん、私と子供たちの意志が符合する環境が整っていないことは十分承知しています。
一日の生活を営む為にも環境と闘争を繰り返しているのです。
それ故に、朝に計画したことに対しても、自信を持つことはできない場合もあります。
そんな一日が加わって一か月になり、いつしか一年になるという事です。

間違いなく複雑な事情を打破することができる推進力と決意を持たなければならないという事です。
これからも三百六十五日、克服することができる意志力、あるいは闘志力、推進力を備えつつ万難を排したいと思っています。