2018年7月6日(八段語録3336)
堂々とこの道を歩む


 極真会館手塚グループは、手塚会長が遺族派として五人の支部長達が立ち上がり、大山総裁の遺言書無効の判決を最高裁で勝ち取りました。
それだけに、松井氏が極真会館という大山総裁の後継者という事にはならなかったのです。
そして、分裂した極真会館という組織が雨後のタケノコのように誕生したことになったのでした。
この遺言書の無効という偉業を達成したのが、まぎれもなく手塚会長という認識なのです。

大山総裁の意志を受け継ぐという団体として極真会館を名乗るという事になったのです。
勿論、極端な主張をしたことによって、裁判で極真会館ではなく、新極真会館という団体に変更になったという事もあります。
さらに、極真空手を継承したという事で、その当時の責任者によって、様々な名称にもなりました。
私達というならば、「国際空手道連盟総本部極真会館手塚グループ」という名称で活動を続けているのです。

これは、遺言書が無効になったという事で、正統の極真会館として出発するという手塚会長の意志なのです。
それで、世界の道場生が、この手塚グループに共鳴して世界で活躍するという事になったのです。
手塚会長は、この世を去りましたが、手塚グループは永遠に残すようにという指示を私たちは受けたのでした。
それだけに、手塚グループを守り発展させるのが私達の役割になったのです。

勿論、手塚グループの理念は、手塚会長と私が対話を重ねて、その都度書き記してきました。
手塚会長から指導を受けたことを、実践してきた記録も相当な内容になっているのです。
私からの提案も会長に伝えて議論を欠かすことなく日々を綴ってきたという実感があるのです。
それだけに、極真手塚グループの生命の書として、私の書いた記録は後世に残せるというものです。

 さて、手塚会長は、世界に出かけるにしても、エコノミークラスで移動してきました。
傍から見て、ビジネスクラスにすればいいという思いがありましたが、貫いていました。
そして、現地に到着するや否や、百パーセント以上の投入を惜しみなくされたのです。
決して、独裁者のような姿勢はとらなかったのです。

それも、「家族」であるという精神で、親のような心境で極真空手を広めていったのです。
会長自身の存在する理由は、自分自身で餃子を作って道場生に振舞うようなものでした。
そんな料理を作るところから、東洋と西洋に通じる道を模索したのかもしれません。
それは、実に奉仕者の姿だったのです。

その奉仕自体のお世話を、ミッシェル師範、アラン師範に投入していきました。
特に、アラン師範は、世界において、手塚会長の一番弟子として活動したのでした。
その世界副会長になったアラン師範も、手塚会長に劣らず、私財を投げうって活動したのです。

会長の願いを知ったアラン師範は、投入してまた投入するという姿勢を貫いたのです。
小さなことから大きなことまで、徹底して対応したという事は言うまでもないのです。
確かに傍では、消耗する戦いをアラン師範はしてきましたが、より大きな組織に増大していったのでした。
手塚グループとして産声を上げて、もう二十数年の歴史を刻んでいるのです。

そのようなことで、消耗するような活動にはなっていないのです。
どのような批判も甘んじて受けて、動いて大きくなろうとするのです。
根を手塚会長に置いているので、決してその概念から離れないのです。
そのような事を、決心して今日一日を終了しました。