2018年7月5日(八段語録3335)
極真


 私の人生において、極真空手は生命そのものになっているのです。
生きる上での登山口であり、道は険しくとも遣り甲斐のある人生として選択したのです。
大山総裁が開拓した道という事もありますが、付加価値をつける喜びも味わっているのです。
最も価値ある付加価値とは、自分の生涯を貫いているという事であります。
また、我が息子が継承しているということで、この上ない喜びにもなっています。

幾度となく人生で挫折を繰り返しながら、それでも立ち上がり、真剣勝負を挑むことができたのも、極真空手の神髄が補ってくれたという事でしょう。
まだまだ、この年齢になっていても、現在進行形であり、飽くなき挑戦をしているのです。
確かに、頑張ろうという表現をしているのですが、内心は不安がいっぱいなのです。

ひょっとしたら、今日にでも崩れてしまうのではないかという恐れさえあります。
それでも、自分を鼓舞するかのように、夢と理想の中に生きているのです。
私自身の課題やウイークポイントを潰していくという戦いもしてきました。
それで、今となっては、夢と理想のみが、私の心を支配するように仕向けているのです。

このクループの責任者として、両手を極真に掲げている限り、燃え上がる炎の進軍であると確信しているのです。
極真に魅せられて、弱い心は遠く彼方へ投げ飛ばしてしまっているのです。
その原点が、日々の稽古であることは言うまでもありません。
今日も極真を貫くぞという決意が、稽古の一つ一つに現れるのは有難いことです。

 さて、このような極真の心は変わらないのです。
変わらないからこそ、一定のレベルを維持することができるというものです。
「ああだ、こうだ」と評価されても別に気にもしないのです。
極真という絶対的な基準をもって、公認を受けようと根を張っているのです。

もう四十五年も極真を継続させて頂くと、「原型」が極真になってしまうのです。
それを中心に「合うのか、違うのか」という判断になるという事です。
ぴったり合えば、万事において順調であると結論付けるのです。
もちろん、極真に合わない人は、いずれは離れていくのは言うまでもないのです。

極真精神には、革命もなく変化もないという事です。
絶えず変わってしまう「人も物」も信頼できないという事です。
ようするに、極真は変わらないという特性を持っているという風に思うです。
この極真をもって、世の中の現象を比較検討しようとも思うのです。

壊れない、崩れない精神として自分に同化させたいという気持ちになります。
イギリスのグリニッジ天文台のようにも思うのです。
そこはゼロ点になっているという事です。
どんなに、変わらせようとしても変わらないのです。

極真精神が秩序の形成に役立てば幸いです。