2018年6月18日(八段語録3318)
主張が玉虫色に違う事にもなる訳


 道徳倫理的には、見ることをいい加減に見ないで、聞くものをいい加減に聞かないで、話すことも人に対して、いい加減にしてはいけないと説教して指導します。
そのような教育をしてきたのですが、実際に世の中ではそのようにはいかないようです。
正しいという事を提言すると、否定されることが多くなっています。
それだけに、自分の行く道が忙しく、周りの矛盾するようなことに口出ししないことになります。

そこで、矛盾しないように見るもの、聞くもの、感じるもの全てを、距離感をもって対応するようにしているのです。
しかし、直接に関わっていることは、決して曲げないという意識は強いのです。
周辺に関しては、グレーゾーンにして邪魔しないようにしているのです。
このような姿勢は、最近、身に着けてきている処世術のようなものなのです。

年齢を重ねて、ずるくなったという事でしょうか。
それは、誰かを喜ばせるという誰かという事に限定するからなのでしょう。
良いものを食べる時や着る時、もちろん悲しい時や大変な時、誰かと共有するのです。
そうすることによって、誰かに覚えられようとするわけです。

私の意識と直感と感覚器官の一切が、誰かと共有するのであり、守られたいという事なのです。
そうならない限り、誰かを守ることができないという事にもなるからです。
また、誰かを所有することもできないという事になりかねないのです。
複雑に入り組んでいる人間関係で、誰かを大切にするという事が信念と反するようにもなるのです。

 このような矛盾は、社会に出てから数多くありました。
今も葛藤することが多いのです。
それは気持ちで連結したいと思うであり、なるべく意思疎通したいという事なのです。
そうすると、見て、感じ、感情的に体感する一切も関係を持つことができるというものです。

このようなコンセプトを持つに至ったのも、年齢を重ねてきたからという事でしょう。
朝、寝床から起きて、誰かを思い、そして一日を出発するわけです。
もう日ごろの習慣が、誰かを守るための生き方になっているという事です。
このような生活態度になっているという事なのだと言い聞かせているのです。

朝起きて感じる全ての感覚が、作動するのは、誰かを守るという一点になるのです。
その点を喪失すれば、誰かと私は関係を結ぶことができないという事になります。
曖昧な私を吐露してしまうのですが、誰かを守るために仕方がないと諦めているのです。
それで、歩調を合わせる私の生活という事になります。

正義感をもって、無関係な人達と何かを行うという事ではないわけです。
一日で見聞きした全ての事は何の為であるかという事です。
誰かの為であり、その誰かを守る戦いで方便も出るという事に気が付くのです。
私の口から出る言葉は、誰かを守るという観点に立っているという事を悟り始めているのです。

責任もなく、過ごすような生活をしている人もいます。
そのような人達は勝手な事を言っているのです。
私には、守る誰かがいるので、守る方向に言動が飛び出すというものです。
誰かを守るための生き方が、私の原則的な生き方になり、周辺部分に関しては、グレーゾーンになるというものです。

ちょっとした生活の中での言い分という事になってしまいました。