2018年6月17日(八段語録3317)
瀬峰における東北大会


 根白石の別荘から車で一時間かけて、会場に九時半に到着でした。
ちょうど選手入場の時で、ぎりぎり間に合ったということになってしまいました。
会場まで、プリウスphvを電気で走行できましたので、燃費ゼロという事でした。
帰りは、トヨタディラーで充電したので、これも燃費ゼロという事でした。

今回の新人戦には、15人がエントリーしました。
ほとんどの道場生は、大会は初めてという事でした。
今回の大会の特徴は、細かくクラスを分けてくださったという事です。
無理なく、道場生が戦えたということと、試合数が新人であるがゆえに少なかったので有難かったという事です。

選手会の父兄も応援に駆けつけて、必死に声援をして下さっていました。
さらに、指導員である私の息子も駆けつけて応援していました。
かつて、この大会に参加していた児童である道場生が宮城県本部の指導者になっているのです。
道場も開拓の時期でしたので、一回戦で敗退がほとんどだったのでした。

児童が大会に参加するという事を、目の当たりにしたのがこの瀬峰でした。
それまでは、極真の大会は、成人しかなかったのです。
操先生が主催する大会での参加がきっかけになって、今の指導者がいるという事です。
そのような意味では、お世話になった大会という事で、声掛けもしないのに、当時の指導者も応援に駆けつけるのです。

 さて、かつて児童での大会参加者の指導員が今の道場生を応援しているのです。
二十年も参加すると、このような現象になるのだと感無量になるのです。
もちろん、去っていった道場生の数も多いのですが、残っていることに感謝です。
その理由はなんであるかというならば、私の道場の指導は厳しいのです。

肉体の要求するものを、全て極真空手に投入せよと指導するわけです。
そして、何を願うかというとならば、心を磨くことを優先させるのです。
それは、無限に自由な武人になるための選択を日々させるという事になるのです。
そのような修行を越えていく若き日でなければならないと指導するのです。

人は必ず難しい課題にぶつかるわけです。
まだ、若かりし頃は、難しい課題に関しては無頓着なのです。
知らずに生きているわけですから、起こったときには右往左往してしまうのです。
その為の準備という事が、稽古であるという事を悟るように仕向けているのです。

人の心は朝夕変わりますが、山の色は古今変わらず今も同じなのです。
その同じ心を抱くというところに、稽古の本質があるのです。
体を全て投入させることによって、不平不満を感じない順応と柔和な道理を求め、厳然と存続生存して行く道を模索するのです。

またつまらない講釈をしてしまいました。
それもこれも、極真空手を継続してきたからこその姿勢になっているのです。
時代に乗り遅れないためにも、肉体の鍛錬は必要です。
それが、魂に昇華されるというものです。

人口衛星が空を飛び、コンピューターがあらゆる社会に応用されているのです。
一生の全てが記録される時代に入っているというものです。
世界の出来事や歴史、全てのもがあっという間に知りえる時代に入っているのです。
このような時代に、極真空手で心身を鍛えるという事は素晴らしいことです。

そして、大会を開いて下さる操先生に感謝です。
大会を通じて、大きく道場生が成長していく事を願いながら表現してみました。