2018年6月5日(八段語録3305)
法の下に自分を治める


 五月・六月は各団体の総会が軒並み開かれます。
一年の総決算であり、今年の計画を発表する場になるのです。
総会を契機に、新たなる一歩が踏み出されるということになるわけです。
公に、一年間の行事を公表し、会計決算監査人を通じて承認を頂いて総会に諮るのです。

その団体に於いては、総会において公にされるわけですので、活動と公金が適正かということが問われるというものです。
ある団体は、会計が不明瞭ということがあって、総会に出てこられなくなっているのです。
というのも、一人の責任者が団体の公金を管理しているという事で、公に出せないのです。
それでも、不明瞭である公金の使い方であるにもかかわらず、誰も厳しく指導もできないのです。

地域活動に関しても、活動する上で法度があり、その法度に背けば、厳しい判断は下されるはずなのです。
今は、各団体においても、全てを公にするということが地域において定着してきているのです。
もちろん、宮城野保護司会においても徹底的に活動と公金の整合性を取っているのです。
特に、保護司という事で犯罪者の社会復帰に対応する団体であれば、なお更という事です。

その保護司会での事務局長という立場を、総会で承認されて活動が始まったのです。
保護司は、七十五歳までという年齢制限がありますから、これから十年余りの期間なのです。
退職の年齢が分かっていますから、逆算してみて「どのような活動をするか」となるわけです。
二年間の委嘱でその都度に再任されるというシステムですので、結果的に七十六歳なのです。

 さて、保護司という事もあって、法律に背くという事は絶対にあってはならないのです。
保護司になってから、十八年にも及ぶのですが、肝に銘じて法律違反はしないのです。
スピード違反で行政処分を受けるとするならば、保護司は返上しなければならないのです。
もちろん、私または家族そして親族が法律違反したとしても保護司の継続は不可能なのです。

法律を犯さないという事は当然のことで、さらに模範的な生活姿勢を積み重ねなければいけないという事は言うまでもないのです。
そうであればこそ、法律に照らし合わせて、日々鑑別をするがゆえに、悪人になろうとしてもなれず、法律に背こうとしても背けないという意識になっているのです。
それは、確かに自制をして生きるということになるのですが、誘惑から守られるという事にもなるのです。
私自身、保護司という立場を与えられたがゆえに、人生の喪失に至らなかったと思っているのです。
その保護司を、家族に応用し、極真会館の道場に応用しているといっても過言でないのです。

法の下に根付いているという事で、不平不満もないのです
それ故に、家族も喪失したという事もないのです。
法から離脱した生活をするということ自体、保護司ではなくなるという事です。
天倫として秩序を正しく守っていくという事で、人生が成立するという意識なのです。

 そのような意味で、保護司は私の隠れ蓑ならぬ魔除けになっているのです。
法を守って、最後に残るものは、家族であると思っているので大切にするわけです。
それは、人として落ちようにも落ちることができないという立場でもあるのです。
そんな生活舞台を頂いているという事も感謝に他ならないのです。

人生を正しく生きるための保護司は、私にとってなくてはならないのです。
そのような役割に責任と信念をもって、生活するようにしているのです。