2018年6月4日(八段語録3304)
限界の壁に向かって


 長距離運転で疲れが出ているのですが、キッチリと朝四時半に起床して一日の準備です。
栃木市で開かれた全関東大会の応援に出席して、選手の戦いを目の当たりにしたのです。
若き魂の選手達から刺激を受けて、気持ちも体も冴えて車を運転して帰ったのでした。
それでも、年齢が高いという事もあっても、疲労困憊でも、また戦うという意識は強いのです。

今日も、朝早く博先生の辻立のサポートをしています。
この先生が市政を正しい方向に向けてくれるという確信からなのです。
私との共通点は、現状に満足することなく、常に飽くなき挑戦をしているという事です。
議員を八期も継続すれば、満足して安堵しているとも限らないですが、議員は安堵の素振りも見せないのです。

つまり、今の努力は現状を満足させるという事ではなく、次への挑戦に至るという事です。
挑戦し続ける、執念の化身にでもなっているかのようです。
そうでなければ、全ての行動が無効であるように思うは私ばかりでしょうか。
次への挑戦を求めるということが、ミッションを受けて立つ為の公式のようにも思うのです。

手塚グループは、その挑戦の形態を家族に向けています。
固定して定着した家族を意味するのではなく、完成に向かって日々努力するという事です。
安堵とか安泰ということが、悪魔が囁きかけるひっかけるカギになるような発想にもなるわけです。
日々に、責任を果たしていこうとすることが、次の目標を掲げて旅立つという道へと続くのです。

 さて、現状に満足しないという気持ちは、私の人生においても有利に働いているようです。
例えば、家とか車という物質になれば、取得すれば、それで満足してしまうものです。
ところが、夢や希望というものは、財産にみるような終着駅がないのです。
家族の愛情一つとっても、これで満足という事は全くといっていい程ないわけです。

財産のように金銭に換算するようなものに目標を置いていないというのも、私の姿勢です。
全く興味がないかというならば、それはちょっと違っていて、生活する上では必要なわけです。
その財産を土台として、人生において、やりたいことが山ほどあるというものです。
その事を思うと、寝ても覚めてもいられなくなってしまうのです。

私の人生を振り返ってみても、楽な道はそれなりにあるのですがその道へは行かないのです。
それなりの優秀な頭脳を持っているのですから、なるべく楽な道への選択はできるはずです。
花のような青春を極真空手一筋に歩んだということ自体、おかしいことです。
空手着を汗臭くして、ぼろぼろの帯を誇りとして歩んできたのですから、変り者に見られたのです。

激しい組手はもちろんのこと、肉体がボロボロになるまで、稽古を続けるのです。
こんな稽古を最高の人生と思って日々を過ごしてきたのですから、気が違っているようなものです。
その稽古で、自分が成長していると言い聞かせてきたのです。
結果、成熟の領域の完成とは程遠いという事にもなっているわけです。

それでも、修行の成就を夢見て、原則が適用されているようにして、今も努力を重ねているのです。
成熟とは程遠いのですが、頑張らなければならないと思うわけです。
まして、歩みを止めるという事は、決してしないのです。
そのような伝統を今も立て続けている自分がいるわけです。