2018年5月22日(八段語録3291)
何をどうしたいのかを考える


 今日も一日の対応の為にスタートダッシュです。
起床四時半、朝日が昇ろうとしている田舎道を、都会に向かって車を走らせます。
今日一日のスケジュールを頭の中に描いて、挑戦しようとするわけです。
確かに、一日をしっかり歩もうと目的地に向かうのですが、、その私はどこへ行くのかと考えます。

一生懸命に生きることができているので、私の心はどこへ行くのかという事は考えにないのです。
ただ、勢いに身を任せて、全力投入しているという事だけにしているというわけです。
言えることは、この肉体は、最後は土に帰るという事だけはわかっているのです。
それでも、夢や理想、そして理念や所願はどこへ行ってしまうのだろうかと考えるのです。

そのまま、肉体と共に無くなってしまうようでしたら、空しくもあります。
確かに、今日も一日を出発したわけですから、家から出て心はどこかへ行くという事です。
肉体と共に、精神的なものが消え失せてしまうとしたら面白くもないという事にもなります。
日々確実な目標をもって歩んでいるわけですから、夢や理想も持つ心も確実にどこかに、行き着きたいという事です。

自然界の蝶や蝉にしても、脱皮を繰り返して、その都度変化していくのです。
万端の準備がされて、大空を飛ぶようになるのです。
殻を脱皮してみると、大いなる世界が待ち受けていたという事です。
人間に関しても、どこかに行くのですから、土に帰ってしまうという事だけは思いたくないことです。

 さて、今日は北海道洞爺湖から帰ってくる娘達を迎えに仙台空港へ向かったのです。
長女は洞爺湖マラソンに参加して、27キロ地点で足が故障して棄権したという事でした。
次女は、長女の婚約者の家族の長女と意気投合して、燃える会話になったという事でした。
確かに彼女達は洞爺湖に出かけましたが、心もどこかへ出かけたはずなのです。

目に見えませんが、出かけて到着したという思いになるのです。
実際は、洞爺湖マラソンや、婚約者の長女との出会いが用意されていたのです。
それと同じように、心もどこかに出かけたはずであるという思いたいわけです。
本人達にしか分からないでしょうが、どこかに着いたはずという事でしょう。

洞爺湖という目的があり、その場所に到着したのです。
それと同じように、心もどこかに到着したはずであると発想するのも当たり前です。
動機をもって洞爺湖に行ったわけですから、行った目的の如く、心の目的はあったのでしょう。
自然のように初夏が過ぎたら夏本番になるという方向と目的があるのです。

それだけに、必要以上に考えてしまうというのも悪い癖という事です。
ふと考えるのが蝉や蝶のように、肉体が土に帰ると、心のような魂が脱皮するのではという事です。
カフカ作の「変身」のようなものです。
もちろん、悪く変わるのではなく、素晴らしい天使以上の存在に変わるという事も描くわけです。
あくまでも、ロマンに生きるという事でのこだわりは強いようです。