2018年5月20日(八段語録3289)
完成なき人生


 私の今の立場と期間は、責任を全うする活動になっています。
手塚会長の後を引き継いで、どのような戦いをするかという事を常に自問するわけです。
日々色々な課題に直面するわけです。
その課題に取り組んで、より良い結果を出すという事に専念する日々が続いているのです。

それで、目的を完成されたような夢を見ることはありますが、途上の道を歩むばかりです。
実際は、何度も失敗を重ねて、試行錯誤しながら、現状から抜け出すのが「やっと」という事です。
生きているという事は、成熟への道であって、まだまだやるべきことが多いのです。
正直、誰にも頼れない道が果てしなく続いているという事です。

そこで、考えてみると、造作物には、完成品というものがあります。
しかし、人間の人生においては、完成という内容に関しては、到底考えられないわけです。
成熟して、完成するという事は、どのような事なのかも分からないのです。
果てしなく、追及の道が続くのが現実であるだけということです。

それでも、良い人生でありたいと誰もが願うのです。
その願いはあっても、完全な良い人生というモデルは全くないのです。
生きていくうえで、色々な制約があって、面倒だと思うのですが、仕方がありません。
それでも、人生の成熟へ向けて今日も第一歩を歩み出すという事です。

 さて、今日は仙台歴史絵巻物の祭典である青葉まつりが、二日目を迎えていました。
恒例で、毎年消防の梯子乗りが披露されます。
晴天の下、県内外の観客が前で、演技が繰り出されました。
今回は、私は支え手という事で、演技を下で支える立場での出場でした。

この消防の梯子乗りも、仙台の無形文化財に指定されて半年がたちました。
これからは、この梯子乗りを守っていくということになります。
十数年の間、纏振りをしていましたので、思い入れが大きいというものです。
そして、継続してやり遂げてきたという事なのでしょう。

しかし、今年で消防団も退職するのです。
定年という事で、来年の青葉まつりには梯子乗りのメンバーとしてはいないという事です。
最後ですから、作品のような造作物であったら完成ということもあり得ることです。
まだまだ、色々やりたいことがあって、梯子乗りにおいても、成就という事はなさそうです。
定年が六十五歳ということで、私は九月で定年の年齢になるわけです。
奉仕活動のなかで、多くの職責の中の一つが、来年には無くなるという事です。
これも、完成に向けて独自の戦略を立てて「纏」を振ってきたものです。
それを、後輩に譲るのですから、本当に終了という事なのです。

 ところで、そのような事を考えて、上を目指した日々努力した人生があるわけです。
そんな人生の生き方は、全ての能力を駆使して、あらゆる力をここに集約したのです。
そして、日々意識の中で、改革と行く事での取り組みをしてきたわけです。
改革を日々行う理由は、写真でいうピントを合わせるという作業なのかもしれません。

写真が上手に写っていないので、取り直しを日々しているのかもしれません。
それにしても、一瞬のシャッターチャンスを逃していることが多いようです。
正義感から、調和を乱すという事もよくあることです。
自分の理想とするモデルがありますから、迎合するわけにはいかないようです。

そのような理由からして、日々未完成で送っていると定義するに至るのです。
責任を果たすというところから、過程を大切にして歩むという事でしょうか。
それにしても、これから一生の仕事が始まるという気持ちで取り組むのです。
それも、まだ「未完成」という事からの発想という事です。