2018年5月12日(八段語録3281)
新規見学者


 七人の新規見学者が来ていました。
トヨタ自動車関連の企業が移転してきている地域でした。
今回初段になった指導者の教室になるのです。
狭い会場を借りていましたから、所狭しに道場生だらけになりました。

御父兄も一緒ですので、ゴッジャになっているという状態です。
初回の道場開設にという事で、お手伝いに来てくれる道場生も多くおりました。
今年に入って、三か所目の教室開設という事です。
実務スタッフは道場が増えるわけで「てんやわんや」になるという事ですから大変です。

それにしても、土曜日の教室は、朝から晩まで、五か所での指導ですので大変です。
体は一個しかありませんから、新規来場者を中心に回っているのが現状です。
スタッフや指導員のチームワークもうまく循環していて、申し分のない環境になっています。
道場生が、十年以上も稽古をすると、もう立派な指導者の仲間入りをするのです。

残って指導者になる道場生が、素晴らしく輝くのも、指導理念がしっかりしているという事でしょう。
社会に貢献することができる人材を輩出するのが、道場の願いです。
それに、答えてくれる道場生という人材を多く輩出できるのは、有難いことです。
入門してから輝く純金になるように、力の限り愛情を注いていきたいという思いになります。

 さて、道場生は、砂に入っている黄金の粒であったり、何かの鉱石に入っている黄金の粒であったりします。
その黄金の粒を摘出するために、全部溶鉱炉に放り込んで溶かさなければならないわけです。
つまり、何度か焼きださなければならないのです。それが道場の役割であるというのです。
焼きだされて、溶けて液体になっていくわけですから、気分はどうかという事です。

人それぞれに感性は違いますが、どうあれ、自分の意志で飛び込んでいかなければならないのです。
その過程は修行ということになるのですが、良い思いだけをするという事でもないのです。
原石や砂から黄金だけを抽出するということは、溶鉱炉で練らなければならないのです。
そうでなければ、純度の高い黄金は抽出できないという事です。

何千度の熱で溶かされて、抽出するわけですから、道場生本人は、身も蓋もないようになるわけです。
溶鉱炉に投入され時には、悲惨でも、精製されて黄金が高い純度になれば、幸福という事です。
道場で稽古をするという事は、まだ自分ができていないからであり、好んで稽古をするという意識は必要なのです。
そして、本物の自分になるまで稽古は続くという事なのです。

純金になるための溶鉱炉と同じように、稽古する道場は、純度の高い道場生になるための溶鉱炉のようなものです。
本物の自分を発見して、純度を高める日々が、稽古であるというのです。
そして、自分が主張する内容が、稽古を通じて黄金の価値を持つということが良いのです。
稽古は、純度百パーセントを目指す黄金のような価値を持つためのものなのです。

 そのような事で、私も稽古を継続中という事です。
不純なものが一つも入らないようにという修行なのです。
人格においても、純金のようでありたいと思うのです。
今日来場した道場生も原石のようなものです。

私もまだ、鍛錬と試練、精錬を過程が必要であると事に間違いはないのです。
まだまだ、道場で稽古をして、錬磨を受けるべき過程が残っているというものです。
今でも突っ込んで悪いものは焼いてしまい、純金だけを抽出したいものです。
今日来ている見学者が、これから道場で純金になる過程を歩むかどうかというところです。

結晶として立派な純金になって欲しいという気持ちで、会場を去りました。
時間はかかりますが、調整装置、調整期間、調整する場所は絶対に必要です。
それを提供できるように日々検証していきたいという思いになります。