2018年5月6日(八段語録3275)
心の自由人


 今日も農作業です。
ナス、キュウリ、トマト等夏野菜を植えます。
天気は晴れです。
さわやかな日差しを浴びながら、元気いっぱいに作業をしようと思っています。

ふと考えることがあります。
家族も道場生も、そして通りすがりの人々も大切な人であるという事です。
サラリーマンとしての勤務はありませんから分からないのですが、よく聞くことがあります。
というのも、「上司には、御機嫌伺のようにして、部下には冷たくあしらう」という話です。

それで私としては、サラリーマンのような組織に足を踏み入れなくて良かったと思うのです。
人々素晴らしさを、十分に感じて人生を歩もうとしているからです。
誰に対しても、どんな人に対しても懐かしく思える心を育ててきているように思うのです。
この発想は、私の日々の心持であると思っているのです。

誰に対しても、大切に思う愛情の人生観であると思っているわけです。
上下関係や左右の関係でさえ、大切に思う心が育ったようです。
会長という立場でさえ、そのような心は変わらないという事なのです。
そうでなければ、誰にでも会う事もないし、誰でも私の心を訪ねてきてくれることは無いと思っているのです。

 そんな訳で、今でも大切にしているのが、今まで出会った人々です。
その人々の中の一人に、心の深い谷間の位置で一つに結ばれている妻もいるのです。
いつまでも結んでいるので、愛情としての理想型があるというものです。
ですから、このように人との接点を持つようにできたということが良かったのです。

昨日も、若き十代の時に出会った友と会話をしました。
屈託なく、昔話に花が咲くのです。
お互い六十歳を越えていますので、何のわだかまりもないのです。
裸同然の気持ちが行き来するのです。

その根底にある心は、何にも代えがたい内容が満ちて嬉しいという事です。
人生は、そんなに楽な道ばかりでないので、出会いは憩いのひと時になるのです。
どんな人に対しても、愛情をもって対処することが、いい気分になるのです。
そんな姿勢が、自動的に喜べることであり、尊敬もされるというものです。

若き日々は、よく話をしたものです。
声が枯れるぐらい話し続けていました。
口から生まれたような存在であったかもしれません。
それが、師範になってからというもの、違ってきているのです。

 とうのも、語るよりは、書くという方向に転換しているのです。
人を言葉で傷つけたという事も、反省の材料になっているからです。
また、表現したい事を、見直して考えることもできるというものです。
そして、過去何を考えて表現しているかという事も一目瞭然なのです。