2018年5月1日(八段語録3270)
日々の修行を考える


 私の時代に急浮上した極真空手に魅了されたのは、幸せであると思うのです。
極真空手の道場に通って、稽古をすることによって、切磋琢磨する日々を過ごしたのです。
稽古が終わると、充実した気持を抱いたものです。
それで、今日の精一杯歩んだという気持ちが膨れ上がったものです。

あれほど稽古で組手をして、闘いを繰り広げたのにもかかわらず、心は平安なのです。
肉体を鍛えたという充実感で、心が解放されるのです。
自分の肉体を使い切ったという事で、不思議に魅了された世界を持つのです。
疲れた肉体を引きずっても、互いに争う事もなく、心が平安になるというのですから不思議な事です。

極真空手の教えは、肉体を鍛え上げて、地上最強の存在を目指すという事でしょう。
地上最強を目指すにしても、体が無ければできないことです。
それも、若ければ若い程、成長と共に肉体の完成へと目指せるというものです。
怪我もします。それでも障害を乗り越えて、逞しく作り上げるのも肉体を持っているからという事です。

それ故に、どんなに年齢が高くなろうとも、やるべきことは、肉体の錬磨という事です。
生きている時間は、振り返ってみても、さほど長いという事はないので、日々真剣そのものになります。
いまでも、極真空手の修行で、できることは全て実践していきたいという思いが強いのです。
それだけに、私の生活は、忙しい振りをして過ごしているのです。

期間が制限された人生で、世界を舞台にして活躍することができるのは、幸せな事です。
極真の道を通じて、異次元の世界へ導かれたという事でしょう。
世界を相手に人生を送れるという事は、そんなに多くの人に訪れるものではないのです。
それも、偶然にこのようなポジションを与えられたわけでもないのです。

あくまでも、コツコツと手塚会長と開拓してきたのです。
準備するという事は、たやすいことではなかったのです。
会長と行き当たりばったり、世界を駆け巡ったようにも思うのです。
本当に現地で道場生が待ってくれているかどうかも分からずに、飛行機に飛び乗ったものです。

現実だけを振り返っては、世界を舞台にする冒険など、できるものではなかったのです。
一般のサラリーマンのように、日が沈むように人生を終えようなどとは、思っていなかったのです。
このグループを確立して、次の時代に引き継がせることに余念がなかったのです。
それで、このグループで修行することが、良き家族を作っていくという道を開こうとしたのです。

そのような武道の本質のようなグループを目指したのでした。
それだけに、道場での稽古は、学業における単位を取るような日々という事なのです。
昇級するごとに、単位を取得して、一段階を終了擦るようなものなのです。
もしそのような意識でなければ、このグループの価値基準から遠ざかってしまうのです。

そのような理由で、培うべき単位を修得して、一生積むべき実績を追及しようとするのです。
言い換えれば、責任というある基準が、会長と共に築いてきましたので、その基準に一致してもらうという事です。
最低、自分と自分の家族の為に生きることができる、人格を目指すという事です。

極真空手の修行は、真空状態を作るようなものです。
その真空状態の中に、何かが引き込まれてくるというものです。
それが、私の誇りになるとするならば、幸いなことです。