2018年4月24日(八段語録3265)
素晴らしい妻と隣人


 下宿棟の解体が7月から始まるので、隣近所の皆様に挨拶に行きました。
傘をさして、夫婦で一軒一軒訪問です。
私が「工事でご迷惑をかけます。」と話すと、それから妻が詳しい話をするのです。
結果的に、私が立っているだけで良いという状況になるのです。

もちろん、妻との打ち合わせは、私が全てを話すという事になっているのです。
それが、挨拶の現場になると、妻の口から状況の細かいところまで、話すのです。
やはり、「喋り」は妻の方が得意なようです。
それも、生活の中で、下宿の女将さんをしているので、滑らかな口調で愛情が感じられるのです。

私は隣で心地よく妻の「喋り」を聞くことになる訳です。
それは、実に心地よい響きに聞こえるのです。
妻を愛して四十年の深みを、自分で感じてしまう一瞬という事になるのです。
留守のお宅もありましたので、明日も継続して近所の訪問をするという事になりました。

 夕方からは、「社明」の反省会を持ちました。
屈託ない会話が成されました。
その中でも、意外と私は話をして、リードするという性格ではないと悟るのです。
若い時は、機関銃のように、何かを訴えて話し続けていたのです。

それが、自然に雰囲気を良くするような状況づくりに専念するのです。
団体の責任者という立場が回ってくる年齢になって、より良く自分を知るという事です。
そうしてみれば、スピーチの中心というよりは、周りを彩るようになっているのです。
そのような自分の性格にたいして、何の矛盾も焦りもないのです。

という事は、周りの人を大切にしたいという事であり、好きであるという事なのです。
哲学的表現をしようとは思わないのですが、真理とは身近な人、そのものという事です。
最高の真理の中心は、信頼している隣人という事であると思うようになっているのです。
実に、そのような隣人に生命があり、愛情があるという事だけで十分なのです。

隣人は、私の心次第でどのようにも変化してくれるのです。
会場で感じることは、そこに生命があり、愛情があるという悟りを開くに至っているという事です。
というのも、若き日の私は、粗雑であり乱暴であったように思うのです。
そのような私に対して、信頼を寄せてくれた女性が、今の妻という事でしょう。

妻に受け入れてもらったということで、あらたなる人生の開拓ができたというものです。
粗暴な私の心にも、お釈迦様のような、微笑みに花を添えられて、慈悲の心もあったという事です。
私の親父にせよ、父の元を離れ、都会へと家出をしたのですが、そんな私を見守ったのです。
親父の気分は、私を心配したでしょうが、頼もしくも思ってくれたのでした。

家出をして親父の心は、気分がそれほど悪くはなかったように思うのです。
親父によって、大きく成長したという気持ちが大きい訳です。
そのような訳で、妻も社明のメンバーも、私には大切な人という気持ちが多いく感じた一日でした。