2018年3月26日(八段語録3240)
指導は必死


 広島での指導を振り返ると、必死でした。
一日中対応したので、声がかすれて潰れてしまったようです。
道場生も真剣に聞いてくれました。
もちろん、子供達に合わせる話は全くしないのです。

あくまでも、稽古をするうえで必要と思われることを、徹底的に話し始めるわけです。
道場生の父兄も全員参加していますから、容赦のない表現でビシバシ語るのです。
私の極真で培ってきたすべての精神を、そこに集中させるのです。
話の内容よりは、私の燃える気持ちを投入する中に、経験した全てが表現されるという事です。

もちろん、空手の実践指導は、私が指名して相手になる人は、痛みも伴うので嫌がります。
そんなことはお構いなしに、技術論から入って、身をもって精神論に至るのです。
広島には年に二回しか来ませんから、今度来る時まで覚えて欲しいことだらけになります。
私の指導には、文句の付け所がないのです。

それは、真剣勝負そのもので、試合をしているような状態での話しかけなのです。
私にとって、最も大切な事は、経験した全てを言葉と技で表現することになるのです。
それだけに内容に、道場生は注目するわけです。
そして、私が、全てを供給したという実感のもとに終わろうとするので、真剣そのものになってしまうのです。

 さて、表現と表情に対して、批判など許されるはずもない姿勢なのです。
その為にも、日々真剣な生き方になるというものです。
「チャラ男」にはなれないようです。
また、本に書いてあることを語るという事とは、程遠いのです。

また、理論がどうのこうのという事に関しても、説明などしないのです。
あくまでも生命のやり取りをしているような、真剣勝負で話しているのです。
そうすると、広島に七年も通いましたが、一度たりとも同じ話はしていないのです。
魂のほとばしる話に、似たような話でも真剣さが増し加わっているという事です。

春夏秋冬が違うと同じように、まったくマニアル化はされないのです。
四季の変化も、まったく違った世界を醸し出します。
それ以上の変化を、指導の中で編み出しているのです。
もちろん、いつも気分が良いとは限りませんので、パワハラのような勢いの時もあります。

広島大会で指導するにしても、いつも気分が良いとは限らないのです。
憂鬱な時もあるのですから、その時の表現はそれなりになってしまいます。
それだけに、自分自身を急に変動させ、刺激的なものにしなければならないと反省するのです。
となると、刺激を与えなければならないという事から、刺激の補充が必要になるのです。

 そのような意味でも、一日の調節は必要になってきます。
人生をこの年齢まで生きているのですから、新たなるものを提示しなければと思うのです。
自分が、恥ずかしく過ごしたくはないということから、真剣になるのです。
ある時は、リポビタンDとかアリナミンAという補強材を用いても説教です。

また、調味料を入れて酸味をきかせ,塩味を強めたり、唐辛子を入れたりという事です。
この話が、新しい感動を与えることができているのかという事に対する検証です。
道場生の為に、「生命の水」を与えようとするのですから刺激的です。

道場生にとって、私が「生きた材料」になって欲しいという思いが強いのかもしれません。
私の「生きた材料」を徹底的にぶつけるわけです。
それで、いつの間にか、道場生は巻き込まれてしまっているのです。
実感のないことは、一切話さないのですから、聞く道場生も真剣になります。