2018年3月24日(八段語録3238)
広島大会


 年に二回開催される大会です。
今年も三月の終わりに開催されました。
日頃の稽古の発表会のようです。
会場全体が緊張しているのです。

正午から初めて、終了したのが六時です。
型の試合と組手の試合を一緒にするのです。
人材がいないので、私も審判員で駆り出されます。
それだけに、六時間立ちっぱなしになります。

道場生の一人一人を、愛情でもって眺めることができるので、その時は疲れないのです。
子供達が、一生懸命に空手道に取り組む姿を見ることができるのです。
毎年、会場で審判をするので、子供達の顔も成長の姿も手に取るようです。
試合が終わる度ごとに、私からコメントを出します。

それができるのは、道場での交流試合だからなのです。
すぐに気が付いたことを直接話します。
試合と教育が一緒のような大会です。
気づけば、私のトークだけでも二時間は超えているという事でした。

 さて、交流大会を何と考えているかというならば、教育という事です。
つまり、道場生一人一人に道を教えるという事に必至になるのです。
大会で勝ち負けだけにこだわろうとはしないのです。
空手道を通して、人生を間違いなく歩めるように指導するのです。

私が仙台から来た理由が道を教えることであると思っているからです。
道場生を眺めながら、「お前はどこへ行くのか」と問いかけているようなものです。
人生の開拓のために、役立つ提言をするという事なのです。
真剣に試合をして、どうだったのかという事を問いかけるのです。

試合という対戦相手を自分の砥石にして、新たな自分自身に目覚めさせようとするのです。
手段は空手ですが、磨きをかけることで、道場生の新たな自己の創造に着手です。
それで、春を迎え、芽生え成長して、季節を過ごして枝を伸ばし、葉を出し、花を開き、実を結ぼうとさせるのです。
北風寒風が吹き荒れることもある人生ですから、逞しい木に育てるのが極真空手という事です。

実を結んでも、それが社会に貢献できなければ何の意味もないという事です。
決して、干上がり縮んでしまうような道場生には育てはしないのです。
そのような、自分らしい自分に成長してもらうために、極真空手の指導なのです。
そのような事を、頭に去来させながら、道場生に対するメッセージを送ったのでした。

 ところで、何でそのようなメッセージを伝えるかという事です。
私自身、この極真空手で新しい自己を生み出したからという事なのです。
極真空手という武道で、精神的に強い人格と秩序の基盤を築いたという実感があるのです。
少なからず、人生に大きく影響を与えてくれたことは間違いないのです。

 それだから、私は極真空手をすることが嬉しいのです。
確かに汗を流しながら、痛い思いもするのです。
それでも、「空手をするな」と言われたとするならば、気が狂ってしまうばかりなのです。
この極真空手が、私にとっては、呼吸するように自然なのです。

当たり前に、道場で稽古をすると発展するように思えるのです。
それも、高まりを見えてくれるのです。
金持ちになっても、贅沢できるのかもしれませんが、それだけです。
権力を持ったとしても、何の意味があるのかという事です。

それよりも、道場生の成長の為に貢献した方が自分を誇ることができるというものです。
それを、私は財産にしようとするようです。
一番自分が欲していることは、誰かのために何かをして上げたいという事です。
それだけに、自分を道場で磨くという事なのかもしれません。

一人の人に良い影響を与えるとするならば、それに生きがいを感じてしまいます。
そのような、生き方の中心になろうということです。
そのような意識で広島大会を終えることができました。