2018年3月20日(八段語録3234)
墓参り


 彼岸の日を明日に控え、明日の天候が心配なので、今日墓参りに行きました。
昨年に母の実家の兄の妻が、他界したのです。
それだけに、母に急かされるように午後から墓参りになりました。
当たり前に人は、永遠に生きることはできないので、いずれはこの世ともお別れになったという事での墓参りという事なのです。

いつもは別に気にしていないのですが、今私達は生きているのです。
ひょっとすると、地球も息をするかのように生命をもって運動しているのです。
地上で暮らしている私達は当たり前のように彼岸に、亡くなった人の事を墓参りします。
というのも亡くなった人たちは、もう地上にはいないのです。
それでも、お世話になった叔母さん、叔父さんに感謝の気持ちと共にお墓まで足を運ぶのです。

それも、母が口癖に言うのは、「あの世で待っていてね」という事なのです。
墓には、遺骨が埋められているのです。
それで、私達にとっては、墓が別の世界への接触点のようです。
もちろん、霊魂があるのではないかと思うですが、お参りをするという事が旅立った人と、より近く接するということなのです。

母はもう八十八歳になっていますので、何かしら終活を行っているようなのです。
私も年齢は高くなってあの世にも近いのです。
それでも、母の親身になって墓参りする感覚は、「真実さと実際」が入り混じるようです。
そのような、墓参りに私自身も真摯に受け止めているのです。

 さて、彼岸の日に考えることは、とにかく人生あるところに向かって進んでいるようです。
もちろん、私が活動しようが、寝ていようがお構いなく時間は過ぎて向かっています。
時間が経過するのですから、どこかに向かっているという事であることは間違いないのですが、どこかは分からないのです。
結論が、このような墓が終着駅であるとするならば、味気無さも感じてしまいます。
一生を終えた後、墓に向かっていくという事でしたら、やりきれない思いもします。
確かに、肉体は遺骨となって墓に埋められることになるのでしょう。
それでも、霊魂があると考えるならば、無限の広がりの発想ができるというものです。
少なからず、私が選択するのは霊魂があるという事で生きているようです。

いつもテーマにしている自分の夢や希望はどこに行こうとしているかという気持ちになるのです。
歩んできた夢や希望は道場生に引き継がれるという事は理解できるのです。
それでも、私の夢や希望がどこに到着するのかというならば、間違いなく到着するはずです。
それだけに、抱いた夢の完結は、必ず果たすという気合いだけはあるという事です。

抱いた夢は、決して縮ませようとは思わないので、時間と共に完結させる覚悟なのです。
私ができることは、決して夢を傾かせないという事なのです。
かつての聖人たちでも、夢はこうであると指示してはくれないのです。
それだけに、私だけの夢かも知れませんが、決してあきらめずに実現するという事です。

 ところで、彼岸だからでしょうか。
そのような霊魂までの世界を見つめようとしているのです。
しかし、現実的に考えると、先の事は考えないようにしようとも思うのです。
というのも、世界の道場生を抱えて、生きていて様々な課題もあるのです。

一度しかない人生です。
まして、与えて頂いた立場で多くの判断をするという事に、遣り甲斐さえ感じるのです。
世界の道場生との距離を縮めて、サポートできることは何でも対応したくなります。
頭の中は、様々時間と空間を飛び越えながら、現実に向き合っているのです。

手塚会長から主人の座を継承しているので、深刻になるというものです。
聞くのも、考えるのも、歩くのも、行動の全てが、全部世界の道場生を中心に回っているのです。
食事をしている時でも、道場生の為に何かできないかという事の発想が大きいのです。
そのような現実的観点からしても、死んでしまえばおしまいという事にはならないのです。

必ずや夢を実現して、結果を残して生きたのです。
それでも、夢が実現できなかったとするならば、弟子に託すという事です。
朝露のごとき人生であるとは、決して思わないのです。
それだけに、墓に入ることまでは、考えが至らないという事でしょう。